彼方からの脅威

著 : 中村 一朗

最終章



     F,終焉


 目を覚ましたパスカー・ヨルデが最初に見た光景は、赤黒く変色した空と、どこまでも続く薄暗い砂漠だった。

 遥か彼方の山並みは、遠い影の中に沈むように霞んで見えた。

 ヨルデは、自らの姿に目を落とす。

 身に着けている衣服は、警務艦にいた時の囚人用のもの。

 両掌を広げ、握りしめてみる。

指先と掌に伝わるのは、暖かく力強い肉の感触。

肌寒い強い風に目を細めて振り返ると、そこには灰色の海が澱んでいた。

さざ波が、天空の雲を映して赤黒くまたたく。

冷たく、荒涼とした空と海。

空には鳥の姿もない。

海にさえ、命の気配は皆無だった。

 火星か…

いや、まさか。地表にこれほどの規模の海などある筈かない…

 ふいに、何かの気配を感じて再び砂漠を振り返る。

 先ほどは誰もいなかった処。

やや離れたそこに立つ女の姿には見覚えがあった。

「ルナ・シークエンス。やはり、君が元凶だったのか」

 明確な殺意をほとばしらせながら、ヨルデは足を踏み出した。

 しかし、女の顔には何の表情も浮かばない。

 人形のように佇んでいるだけだった。

「君が奴らの仲間だったのか、奴らの手先だったのか、…いや、何も知らなかったとしても、そんなことはもうどうでもいい」

 ヨルデはルナとの距離を一気につめた。

 三日前の、土星空域での接見が脳裏に蘇る。

 憎悪の本流に身を任せて、ヨルデは両手を突き出してルナの首を掴んだ。

 殺してやる!

 約束を果たすんだ!

 が、その肌に指が食い込んだと思った瞬間、雷の直撃を受けたような衝撃にヨルデの体は後方に弾かれた。

 十メートル吹き飛ばされながらも、反射的に片手を砂面に突き立てるようにして反転した。四つん這いから素早く身を起こし、ルナを凝視する。

 ヨルデの視線の先には、人形のように無表情なルナの双眸があった。

「違う。ここは、火星ではない」

 ルナが呟いた。

 その声よりも、“火星”という言葉にヨルデは戦慄した。

 思考をトレースできるのか、と胸の奥に再び憎悪の灯がともる。

「では、地球なのか…」

 呟きながら、ヨルデは周囲に視線を逸らした。

 感情を切り離した理性が、周囲の環境状況を再思索する。

 ルナ意外には人の気配はない。

 そして同時に気づいた。

 そのルナにしても、人としての気配が全く感じられない。

「そうだ。だが、お前の知る地球ではない。“あれ”は、30万年前の出来事だった。また私も、ルナ・シークエンスではない。お前の記憶の残滓から、この姿を写しとった。お前にとり、この方が話しやすいだろうから」

 混乱をねじ伏せて、ヨルデの思考はめまぐるしく巡っていた。

 最初に脳裏に浮かんだのは、ここが何者かによって造られた幻影世界である可能性。知らぬ間に意識野に植設された脳内インプラントが、現実と寸分変わらない偽装空間を心の中に構築しているのかもしれない。

 ヨルデは、ここで目を覚ます直前の記憶を探った。

 ルナとの面会の後、警務艦の独房に戻されてからずっと考えていた。

 何かを読み間違えていたのではなかったのか、と。

 そして眠りに落ち、目を覚ましたらここにいた。

 保安局の仕業か。

 いや、違う。

 こんな手間をかけて引き出す情報など、ヨルデは持っていない。

 では、誰かの恨み。

 宇宙空間の警備網をかいくぐり、ヨルデを拉致して復讐する…

 それは、もっとあり得ない。

保安局が収監する冥王星軌道上の監房から、囚人を連れ去るなど絶対に不可能だ。魔法でも使わない限り…

 ルナの姿をした奴が、小さく笑った。

「次は、お前自身の正気を疑うつもりか。無用の詮索だ。ここは現在の地球だ」

 ヨルデの理性が、自身の動物的本性を駆逐する。

 歯を食いしばるような思いで口を開いた。

「仮に君の言葉を信じるとして、僕がここに来るに至った状況を説明してもらえるのかな。地球がこうなってしまった経緯も」

 ルナは頷き、話し始めた。

 正確には、言葉だけではなく膨大な歴史の認識情報とともに脳に直接。

 驚かなかったといえば、嘘になる。

 それでも、衝撃は少しずつ消えていった。

 ヨルデが冥王星宙域から姿を消した直後から三年後のバーサーカー彗星到来までの地球とその周辺宙域の出来事が、夕暮れまでの三時間でロードされた。

夜を迎え、朝が来て昼になるころには、三百年の時の流れの中で人類が太陽系から姿を消していった経緯が語られた。

さらに夕刻までの間に、荒廃してしまった地球環境がようやく落ち着きを取り戻していくまでの約30万年の歴史が示された。

 話が始まってから、26時間。

 その間、ヨルデは身じろぎひとつせずに物語に聞き入った。

 空腹も披露も覚えず、ただひたすら聞き続けた。

 話を聞き終えると、パスカー・ヨルデは、赤黒さを増した二度目の夕暮れをぼんやりと見つめながら大きくため息をついた。

「結局、人類は太陽系から姿を消したのか。では、どこへ行った?」

「銀河の中心に向った。母星を巣立った生命体の本能に従って」

「銀河の中心に何がある?」

「恐らく、その答えを求めて彼らは去った」

 ヨルデはそれ以上の答えを求めて沈黙し、ルナは無表情の沈黙で返した。

「では人類はもう、ここに戻るつもりはないのか?」

「海から陸に上がって進化した生物が、二度と海を故郷と感じなくなることと似ている。宇宙空間で生まれ、宇宙で死ぬ新しい人類にとり、地球はこの海と同じだ。超空間航法を手に入れた時から、地球は彼らの郷愁の対象ではなくなった。それでも時折、彼らの研究グループが調査船を派遣してくる。最後に彼らがここを訪れたのは、12,052年ほど前のことだ。大規模な調査団だった。地球のみならず太陽系全域を徹底的に調べ上げ、古代人類の文明の痕跡を記録していった。もっとも、既に廃墟さえほとんど消え失せていたが」

 ヨルデは妙な違和感を覚えた。

「その調査の際、君の存在について彼らは気づかなかったのか」

 ルナは小さく首を横に振る。

「私の意思に接触できるパラメータを、まだ彼らは持ち合わせていなかった。恐らく今も、彼らは私の存在を認識できないでいる。質量とエネルギー、重力と時空間の関係に拘泥して発展する科学に身を置き続ける限り、彼らが私にたどり着くまでの道はまだ遥かに遠い」

「待て。僕は今こうして君を認識している。いや、多分だが。少なくとも君が、30万年前に僕にコンタクトしてきたのではないのか」

「お前自身、自らを異能者と宣言していただろう。人類という“種”は私を認識できないが、希に生まれる“個”の異能者は私に接触することがある。もっとも、時期が時期だったこともあるが、人類の歴史の中で私から接触したのは唯一お前だけだった」

「…接触」

「私から人類に接触することなどない、と言っている」

「僕も人類の一員と思っているんだが」

「お前はテロリスト。この星の歴史を終わらせようとした」

「もう一つ聞きたい。一万二千年前の人類の末裔どもの調査では、僕の体の隠し場所は探知されなかったのか?」

 ルナは無表情でヨルデを見つめた。

 ヨルデはその沈黙の奥に答えを見つけた。

「…そうか。ようやく気づいた。僕は30万年の間、肉体を保存されていた訳ではなかったのか。この今の地球環境で生存できるように肉体パラメータを調整されていた訳だ。いや、最適化されたというべきなのかな。一日以上、休みも食事もしないで君の話を聞き続けるなど通常の肉体では不可能だ」

「パスカー・ヨルデの“精神”をサルベージした。お前の言い方では、“魂”と言うべきか。そのプロセスで、お前の言う肉体の最適化がお前自身の無意識によってなされた。30万年前に、ある程度は悟っていただろう。重力子科学と認識による魔法のような技術。お前の“魂”はそれによって異界に封印されていた。お前たちの言葉にするなら、そう信じていたのではないか」

「では僕も、君の意思によって生み出されたのか。人類に進化と殺戮をもたらした奴らの一人として、僕も創りだされたという訳か」

 ルナは首を振った。

「いや。お前は想定外の異能者だ。あえて言えば、人類が産み落とした…」

 ルナはそこで言葉を切り、考え込むようにうつむいた。

 空気の匂い。

風の音。

 周囲を彩る光と影。

 彼方の景色が微かに霞みつつある。

 夕暮れのせいではなく、身の内の違和感によるものなのか…

 それらすべてを意識しながら、ヨルデは言葉を選んだ。

「ルナ・シークエンスではないという君は、いったい誰なんだ」

 ルナはゆっくりと首をかしげて、ヨルデさえぞっとするほどの冷たい笑みを浮かべた。

「…知っているはずだ、パスカー・ヨルデ。お前の言葉を借りれば、重力子知性、グラビトロン・インテリジェンス。もちろん、比喩的な意味だけど」

ヨルデが目を見開いた。

「やはり、バーサーカー!」

 身構えるヨルデに、ルナは再び笑みを向けた。

 しかしそれは、冷たい笑みには程遠いものだった。

「お前は、もう一つの可能性を考えるべきだった」

「どういう意味だ」

「衝突軌道上の惑星と彗星。私は彗星ではない、と言えば答えは一つしか残らないだろう」

 ヨルデは、ルナの言葉を噛みしめるように理解した。

 意志を持つ惑星“地球”。しかし…

 ルナは続ける。

「おおむね、お前の直観は正鵠を射ていたのだ。ルナ・シークエンスは、私の干渉によって生まれた異能者だった。彼女だけではない。お前たちの歴史の転換期には、大勢の異能者を送り出してきた。人類の進化を促すためだ」

 暴走しかけた感情をねじ伏せるために、ヨルデは言葉を絞りだす。

「なぜだ」

「身を守るため。お前たちの言う、バーサーカー彗星の直撃を避けるため。地表の生命体の進化を加速することが、私にできる唯一の防衛手段だった」

「バーサーカー彗星とのコミュニケーションは?向こうにも、君のような意思が存在していたんじゃないのか」

「コミュニケーションなどない。それは、私が知るべき事柄ではない」

 混乱する脳内の情報の渦が、一点に向かって集約しつつある。

 最初は、眼前の存在が神のごとき知性と力を持つ存在なのかと思っていた。そのうち、神ではなく悪魔ではないかと思った。

 だが、どちらも違う。そう確信した。

 ヨルデは喉の奥で小さく呻いた。

「…君はいつ、バーサーカー彗星の存在に気づいたんだ」

「33万年ほど前」

「何をした」

「一部の猿人に進化を促した。そのために強い攻撃性を彼らの生存本能の中に植え付けた。殺し合いによる進化。戦争という共食い行為が、お前たちの科学技術を著しく革新していくように促した。質量とエネルギー、重力と時空間の関係の謎に目を向けさせつつ、惑星間の戦争を引き起こさせたりもした」

「惨い話だ…」

 ヨルデの脳裏に“絶対悪”という言葉が浮かぶ。

「好きに呼べばいい。善悪の概念など無用だ。“種”と“個体”の存続、生命という存在さえ私には手段に過ぎない。時の流れは果てしなく長く、同時に短くもある。もう二度と、失敗はしたくない。そして今回の彼方からの脅威に備えるには、時間が足りなかった」

「今回?」

「6,500万年前は避けきれなかった。比較的小さい彗星だったが。あの時は竜と鳥の種族を使った。彼らは物理的な力で彗星を破壊しようとして失敗した。私は大きな傷を受け、彼らは滅んだ。生物圏の再生には予想以上に時間がかかった。あれ以前と以後にも、幾度か同じようなことを繰り返してきた」

「じゃあ…」

 ヨルデの思考は虚空に跳んだ。

 肉体の一部として、最適に活性化した脳細胞がフルスロットルで回転する。

 生命体の本能に従い銀河の中心を目指して旅立ったであろう、無数の種族。

 母星を巣立った生命体の本能、とルナの姿をしたものはそう言った。

 では、星々の宿命とは彼方へ旅立つ“種”を生み出すことではないのか。

 これまでにも、これからも。

 少なくともその幾つかは、この地球を出発点にしていたことになる。

 ヨルデの目の奥をじっと覗き込んでいたルナが小さくうなずく。

「そうかもしれない。或いは私も、何かの歯車の一つなのかもしれないな。いずれにしろ結果的に、彼らは私を救い、その代償に銀河へと旅立つ。彼らの遺跡は時の流れの中で消えていくが、わずかな精神の情報だけは形を変えて受け継がれる。それが、私がお前をここにサルベージしてきた理由だ」

 広大な全宇宙につながる重力子のネット。

 そこにつながり、刻みつけられていく精神の情報とエネルギー。

 科学が、錬金術が求めてやまぬ真理の深淵が、DNAの螺旋が描き出す重力パラメータの彼方に潜んでいることを先鋭化した意識の中でヨルデは理解した。

 ヨルデにつながる、ルナの姿をしたものの意識もまた。

 それに触れた時、ヨルデの身の内に潜む怒りに再び火がともる。

 屈辱感ではなく、その愚かさに対して。

「私が眠りにつくとき、お前の体はこの海に消える。そしてその心もまた分解しながら拡散し、地表を覆う重力子のネットの中で新しい魂を生む礎になる」

 何が“魂”だ、とヨルデは腹の奥底であざ笑った。そして“ここ”なら、ルナに似た奴に気づかれないだろうと悟りつつ。

 自らの魂の中に、ルナさえ知らない“隠し部屋”があることに気づいて。

 そして、こいつは地球の意思なんかじゃないんだ、と密かに。

 ヨルデは、ルナに目を向ける。

 神でもなければ、悪魔でもないもの。

 君は、地球というシステムを防衛する役を担ったに過ぎない、ちっぽけな意識。自分のことを、星の心と思い込んでいたいだけの。

 地表の生命とその魂の意味を理解し愛でることなく、ただの防衛手段と即断する傲慢なその概念に対して。

 燃え上がりながらも凍りついていく類の、怒りと憎悪。

さらに、無限の命を持つ君への憐憫も感じている…。

「君は、地球にとっての白血球のような存在なんだな」

 そう口にして、ヨルデは小さな笑みを浮かべた。

 初めて、ルナの顔に表情らしいものが浮かぶ。

 ペットに噛みつかれた時のように不快そうな、或いは怒りに似た表情が。

「もうすぐ時間だ。おまえは、バラバラになる」

 その言葉を耳にして、ヨルデの頬に笑みが浮かんだ。

 ふいに、意識が、ふわりと揺らいだ。

 いつの間にか、ヨルデの足元にまで海が寄せ、さざ波が砂を洗っていた。

「これは、僕が受けるべき罰なのか。それとも、希望か」

 愚かな問いだと思いながらも、ヨルデは彼女にではなく自らに問う。

 ちらりと、ルナにさげすむような視線を投げた。

 どうせ、こいつの中に答えなどないのだ。

 所詮は、役割を演じているに過ぎない雑魚なのだから。

「私が作り上げた異能者たちの“影”。それがおまえだ。そしてそれは、私が摘み取ってしまった“人類”の可能性。その心の歪んだ欠片を、次のモノたちに伝えてみるがいい。強い“力”として。次の脅威は、536,870年後。今度は、もう少し大きい敵だ…」

 肉体が崩れ始めた。

 ほぼ同時に、脳内の情報が重力子の網の中に溶けていく。

 いいだろう…

 ヨルデは、“ルナ”には知られぬように心の奥底でつぶやいた。

そっと、“隠し部屋”に鍵をかけながら。

 君などに、何一つ語り残すものか。

 僕は、人類がこの星で生きた遺産として、次のモノたちに伝えよう…

 記憶ではなく、力を

 知恵ではなく、精神を

 神として…、悪魔として…

 海の中に溶けながら、パスカー・ヨルデは最後の己の言葉を噛みしめた。



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