短編集

著 : 中村 一朗

月影の季節


 晴れた日の昼下がり。

 郊外の小道にひっそりと建つ、蔦の絡まる少し古びた小さな珈琲館。

 そのお店の名は

「ウェスティ」。

 スーツ姿の男”千年杉”は、そのたたずまいを少し見上げてから、中に入っていきました。

 店の奥の席に着くと、店番のおばあさんがにこやかな微笑みで迎えました。

”千年杉”は、小さく微笑み返しました。

「こんにちは、”千年杉”さん。いらっしゃいませ」

「こんにちわ。ウェスティ・ブレンドを、お願いします」

 おばあさんは、微笑んだまま頷きました。

 コーヒー豆を挽く、カリカリという音。

 鳥たちのさえずり。

 ゆったりとした時間が、コーヒーを入れているおばあさんの周囲を流れていきます。

 ”千年杉”も、店のあちこちに置かれているアンティックグッズに目をやりながら、時の流れに身をゆだねています。

 やがてコーヒーが、”千年杉”のテーブルに置かれました。

”千年杉”は砂糖とミルクをカップに注ぎます。


「ミルクは少し多めに。砂糖は、一杯だけ…でしたわね」

「おや。私の名前以外のことも、覚えてくれましたね」

「ホホホッ。この一週間、毎日来てくれているもの。そのくらいは、覚えなきゃ」

「私も常連のお仲間入りですか。うれしいものですね」

「ええ。でも、この一週間、お客様はあなたひとり。…さびしいものね」


 ”千年杉”は伏せ目がちな表情で、笑みを浮かべました。

 コーヒーを一口すすりながら。

 その間ずっと、おばあさんは笑みを浮かべたまま。


「このお店はね、”千年杉”さん。三十年前に、フェリス・ウェストサイトさんが開いたの。戦争でだんな様を亡くして、しばらくして…」

「…」

「だんな様は、とてもコーヒーが好きだったそうよ。だから、おいしいコーヒーを入れているとき、だんな様がそばにいるって、そう思っていたの。フェリスさんは山から清水を汲んで、特別に取り寄せた豆を毎日焙煎していたわ。四十年間、ずっとそうしていた」


 おばあさんは、壁にかけてある大きな写真を懐かしげに見ています。

 写真には、大勢のお客さんたちで賑わう“ウェスティ”の店内の様子が写っていました。写真の中心には、楽しげなフェリスさん。でも、おばあさんの姿はありません。


「これ、三年前の写真なの。旅のお客さんがおいしいコーヒーに感動したからって、撮った写

 真を送ってくれたのよ」

「いい写真です。お客さんたちも楽しそうですね」

「ええ。いつも、賑やかで。畑仕事の帰りや、工場のお仕事の後に、いつも大勢の町の人たちがやってきたのよ。毎日、私も楽しかった。」


 ”千年杉”は静かな顔で話を聞いています。

 壁際の小さな写真立てに目をやると、フェリスさんに良く似た若い女の人と小さい女の子が写っている古い写真がありました。

 おばあさんは、悲しげな笑みを浮かべて。


「娘さんが、ひとり。…いたそうですね」

「ええ。十八年前まで、フェリスさんを手伝っていたわ。でも、出て行ってしまった。好きな人がいたから、仕方なかったのよ。常連のお客さんたちは心配してくれたけど、フェリスさんはそれでもおいしいコーヒーを入れていた。三年前、突然その娘さん夫婦が事故で亡くなったっていう知らせが来て…。あのときのフェリスさんの悲しみは…見てられないほどで…」

「そのときも、フェリスさんはコーヒーを入れ続けたのですか?」

「一週間、お休みしたわ。おいしいコーヒーを、入れられないからって…」


 ”千年杉”はコーヒーを一口飲みました。


「私は今、おいしいコーヒーを飲んでいますよ」

「フェリスさんの汲んできた水だから。いつか来るお客様のために、私が大切に保存しておいたの。豆は今朝、紳士さんのために私が焙煎して挽いたけど。きっと、今日も来るって思っていたわ。でも、これが最後のコーヒー。フェリスさんの水が、もうないの。私は、この店から出られないし」


 おばあさんの笑みはどこか悲しげで、寂しげでした。

 少しだけ冷たい風が、”千年杉”のほほを撫でていきました。

 ”千年杉”はカップのコーヒーを飲み干しました。そのカップを手にしたまま。


「一週間前、私は何となくこの店のたたずまいが気になって、立ち寄りました。あれから毎日、私はここで二杯ずつコーヒーをいただいてきました。昨日までに12杯。そして七日目の今日は、これが13杯目になります」

「“7”と“13”。どちらも、お弔いには相応しい数ね」


 糸が張りつめるような、静寂と沈黙。

 遠くに聞こえるような、時計の振り子の音は、いっそう静かに時を数え続けます。


「町で聞きました。フェリスさんのお葬式、ひと月前だったそうですね」

「心臓が弱っていたの。お客さんたちが帰ってから、自分が飲むコーヒーを入れているときに、突然…。私には、何も出来なかった。私は何十年もずっとフェリスさんを見ていたけど、フェリスさんは私のことは気づいていないと思っていたの。でもあのとき、フェリスさんは私をじっと見て、“長い間、ありがとう”って言ってくれた。本当は、苦しかったはずなのに私に微笑んでくれて…。だから私は、こうして今でも笑顔でいられる」

「フェリスさんはきっと、コーヒーと同じくらい、このお店を大切に思っていたんですね。だから最期の時、あなたの姿が見えた」

「あなたは最初から私のこと、気づいていたようね。私が見えたのでしょう?何か、訳があってここに来たのかしら?」

「いいえ。あのとき偶然通りかかって、気になって入ってみただけです」

「…そう」


 カチャリ、という小さな音。

”千年杉”はコーヒーカップをソーサーに戻しました。

 そして、おばあさんに視線を向けて。


「あなたは何を望んでいますか。“ウェスティ”さん?」


 ”千年杉”とおばあさんの視線が重なる。二人は深い笑みを浮かべたまま。


「…“ウェスティ”。私には、その名前をもらう資格があるのかしら」

「あなたは、このお店の“心”です。名前をつけたのは、フェリスさんでは?」

「名前ではなく、心を…。私に心をくれたフェリスさんに会いたい。ただ、それだけ。あなたにそれが出来ますか。不思議な紳士さん?」


 おばあさんは優しげな笑みに、静かな涙をたたえていました。

 ”千年杉”は少し俯いて、小さく首を横に振りました。


「残念ですが、亡くなった方の魂がどこに行くのか、私にも解りません。あなたの一番の願いに応えることは私には出来ません。ですが、もしかしたら、あなたの別の願いなら…」

「あら。何かしら?」


 ”千年杉”は懐の懐中時計を取り出して、時間を確かめました。

 そして立ち上がり、入り口に向かいながら。


「ちゃんと説明するつもりでしたが、先に着いてしまったようです」

「…」


 扉を開けると、そこに驚き顔の小さな女の子が立っていました。

 女の子は大きなリュックを背負い、大きな鞄を両手で持っています。


「こんにちは、お嬢さん」

 ”千年杉”は笑みを浮かべてささやきました。

「あーっ、びっくりした!誰もいないって、聞いていたのに。あっ、やだ。こんにちは。はじめまして。あたし、ローラっていいます。おじさんは?」

「”千年杉”といいます」

「…ふうん。変わった名前だね」


 ”千年杉”は優しい顔で頷きました。振り返ると、おばあさんの姿はありません。

 ローラは、店の中をきょろきょろ見まわして、奥のテーブルにコーヒーカップがあることに気がつきました。

 ”千年杉”はその席に戻りました。ローラはその傍らに。


「あなた、この店のお客様ね。常連さんかしら?」

「はい。つい先ほど、そう認めてもらえました」

「あら、…変ね。お店は閉まっていたはずなのに。でもそのカップは、おばあちゃんが常連さんのために用意していたものだし。誰かが、留守番していてくれたのかな」

「ええ。おいしいコーヒーを入れてくれた方が、さっきまでいました。フェリスさんとは、とても仲良しだったそうですよ」

「あら。じゃあ、あたしもお会いしなきゃ。ちゃんと、ご挨拶したい」

「もうすぐ、会うことになると思います。あなたは、フェリスさんのお孫さんですね。お名前は、ローラ?」

「うん、そう。ここに来るのは久しぶりなの。ママと一緒に来たのが最後だったから、五年ぶりかな。ほら、あの写真。その時おばあちゃんが撮ってくれたんだよ」


 壁際の写真立てに目を向けている二人。

 ローラはさりげなく、目の下を拭いました。

 そしてすぐに”千年杉”を見て、無理に笑顔を作りながら。


「フェリスさんやおかあさんの、遺品の整理に来たのではなさそうですね」

「もちろん。ここに住んで、みんなにおいしいコーヒーを飲んでもらうの。できれば、ケーキやパイも焼きたい」

「おや。それは大変な決心ですね」

「おじさんとおばさんは大反対だったけど、もう決めたの。だから、これからもよろしくお願いします」

「こちらこそ。では、さっそくコーヒーのお変わりをお願いできますか」

「はい!!」


 

 ローラはリュックをおろして、中から水とコーヒー豆を取り出しました。お湯をわかたり、カップを運んだりと、パタパタと走り回りながら、不慣れな手つきでようやく一杯のコーヒ―を淹れました。やがてそれを、少し不安げな顔で”千年杉”の前に持ってきました。

”千年杉”は微笑みながら小さく頷いて、それを口に運びました。


「お味、どう?」

「おいしいです。良い水と、良い豆を使っていますね。コーヒーは心で淹れるもの。おいしく淹れようとしているあなたの気持ちが伝わってきます。でも、“ウェスティ”さんの味にはまだ及びません」

「…そうか。同じ豆のはずなんだけど…そうよね。ありがとう!正直な”千年杉”さん。これで、目標が出来た。少しでもおばあちゃんの味に近づかなきゃ」

「がんばってください。でも、ローラはローラの味のコーヒーを探せば良いのかもしれませんが…」

「ううん、ダメ。おばあちゃんの味!五年前に飲んだとき、あたし、本当においしいって思ったの。ママは、まだ解る筈ないって笑ってたけど、あたし、ちゃんと覚えてるよ、おばあちゃんのコーヒーの味」


 キッとした表情で、ローラは”千年杉”を睨むように見ました。

 その視線を無視して”千年杉”は頬杖をつき、穏やかな顔で厨房の奥の扉をじっと見ています。そしてそのまま、小さくつぶやきました。


「ほら、“ウェスティ”さん…」

「えっ?何の話?」


 はっと気づいて、ローラが振り返りました。

 カチャリと扉のノブが回り、恥ずかしげな“ウェスティ”さんがうつむき加減で入ってきました。おばあさんだった“ウェスティ”さんは、少しだけ若い姿になっていました。


「ご紹介しましょう、ローラ。こちらが“ウェスティ”さん。あなたのおばあさんのいちばん大切な友だちで、最後を看取ってくれた方です」

「えっ!あっ、ごめんなさい。…じゃないや。こんにちは、はじめまして。あたし、ローラっていいます。でも、“ウェスティ”さんて、お名前。お店と同じなのね。不思議な感じ」

「はじめまして、ローラさん。…何からお話すれば良いのか…信じてもらえないかもしれないけど、…でも」


 ”千年杉”は右手を掲げて、困り顔の”ウェスティ”さんに微笑みかけました。

 そしてローラに向き直って。


「そう。少しだけ、不思議な話なんです。聞いてあげてくれますか、ローラ。長い、…とても長いお話になるかもしれませんが」

「不思議な話は、大好き。それに、“ウェスティ”さんがおばあちゃんの大親友なら、あたし、大歓迎よ!」


 外は、雲ひとつない夕暮れの帳(とばり)。

 月影が、コーヒーショップ『ウェスティ』に優しい夜のベールを投げかけていました。


END


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