ラリー、やろうぜ! 第二章

著 : 中村 一朗

Q.ゴール・結果・そして…


 ゴール会場は、“いろは坂”の先にある中禅寺湖の片隅に佇むドライブイン。

 いろは坂を上っていく間に、僕は揺れる車内でCPカードをコントロールシートに貼り付け、減点計算をした。当然、シートに記載した文字や数字は、勉強の苦手な小学生にも劣る超ヘタクソなものになってしまった。それでも、ゴール会場に到着するまで待つ我慢など出来なかった。一刻も早く、総減点の集計をしたかったのだ。

 特に、第二ステージの荒船林道セクションについて。

 SSを除いたCPの数は四つ。

 その内の二つは、大きな減点を食らっていると思う。

「どうよ?」と服部が、ハンドルと軽い格闘をしながら聞いてきた。

「ああ、少し待ってくれ。…最初のチェックは“ゼロ”だ。最後は“マイナス2”」

「へえ。まあまあだ」

 この二箇所は最初に計算したところ。

 気になる区間の計算は、まだ真っ最中。

 シートに時刻を転記しながら、暗算で大凡の見当はついた。

「思ったより、マシかも。…よし、出た。荒船の入りが“プラス6”で、出口側が“マイナス5”。二つで“11”だから、2ステの計算区間の減点は“14”だ。SS6と7が、599秒ずつだから、二つで1198。2ステの総減点は“1212”!」

「それが良いんだか悪いんだか、さっぱりわからねえ」

 そう言って服部が笑い、僕も笑った。

「1ステの減点が“1284”だったから、大幅なタイムアップだ。しかも、1ステじゃあもう1本、荒船があったし」

「でもよ、そのお陰で1ステは助かったんだろ?」

「まあね。あの時、運を使ってしまったのかな」

「いや。完走できたんだから、俺たちは運がいい。さっきの“荒船”の件だって、引っかかったのはあれが俺たちの実力だからだ。ラリーって、そういうもんなんだよ、きっと」

 僕は小さくうなずきながら、バインダーを閉じた。

 本当にもう、メチャクチャに長い一日だと思う。

 自分たちのことだけ見て舞い上がってはしゃぎまわったと思えば、徹底的に打ちのめされて奈落の底にまで落ち込んだりした。頑張って這い上がって、廻りを見回してみると、そこには悲喜こもごもの駆け引きが充満していた。

 悪魔のような“Jリーグ”一派の面々が脳裏に浮かぶ。

 彼らの争いも、決着がついたはずだ。

「だれが優勝かな」

「さあ、わからねえ。堀井さんと権藤さんがリタイアしたから、上町さんあたりじゃね?あっ、でも井出さんはリタイアしてなかったな」

「ナビの岩下谷さんとかが風邪引いてたって話の?」

「ああ。あのヘンがワンツーかな。三番が、まさか森さんあたり?」

「女性ドライバーの大野さんもいるよ」

 大きな目と、“あんた、生意気なんだよ”といわれたときの声が蘇る。

「そうだな。村木さんだって、上がってくるかもしれない」

 一瞬、なぜか服部も僕も、言葉を呑んだ。

 目前のコーナーを二つ抜けるまで、“野良猫”の車内を不吉な沈黙が支配する。

「村木さんて、本当に調子悪かったのかな」

 ふいに、服部が口を開いた。

「少なくとも引退の噂は、怪しいね。青田さんを、元気に怒鳴りつけてたし」

「ありゃあ、上町さんの陰謀だ。青田さんいじめ」

「村木さん、1ステは何位だった?」

「7位につけてた。順当なら5位かな。確かに中継でも、元気だったよな」

 中継で村木さんに挨拶をしたとき、村木さんはニタリと笑って『ベンベン…』と訳のわからない鼻歌を歌っていたことをふいに思い出した。

 そのことを服部に話すと、

「どんな鼻歌だった?」と聞いてきた。

「こんな感じ。『ベンベン~♪、ベベン、ベン、ベン、ベベンン~ベン♪』」

「へえ。まるで、津軽三味線だぜ。何かの呪いかな」

「僕に解るはずがない。悪魔に友達はいないし」

 服部と僕はまた笑った。

“野良猫”は“いろは坂”を上りきり、信号を左折して中禅寺湖の周回道路に出た。

 その五分後。

 ドライブインのゴールラインを通過して、“野良猫”はようやく今日のラリーを終えた。

 時刻は、午前1時25分16秒”。

 ラインの後ろに一人だけいたオフィシャルの誘導にしたがって、“野良猫”はうずくまる。

 ラリーのゴール会場が地味なのは、以前のビギナー戦だったキャッシュラリーと同じ。

 薄暗いドライブインの広い駐車には、手前の方に引き上げてきたサービス車両や、リタイアした車がローダーに載せられて放置されていた。

 もちろん、前ゼッケンのCクラスの競技車両も、奥のほうから順に並んでいる。

「青田さんと権藤さんの車、見当たらない」

「ああ。ここには来ないで、帰ったのかな。あっ、四谷先輩のオデッセイならあそこだ」

 服部の指差した方を見ると、誰も乗っていない“歩きウンコ”先輩の車がそこにある。

「たぶん、もう中に入ってるんだろ。俺等も、行こうぜ」

「先に行ってくれ。受付にコントロールシートを提出したら、直ぐに行くよ。もう一回、検算しておきたいんだ」

「おお。じゃ、よろしく」

 窓越しに服部を見送って、僕は検算に取り掛かった。

 CPカードからの転機と計算を三度確認し、最後にサインをして総減点を書き込んだ。

 ラリーコンピュータの主電源を切ると、ようやく今日のラリーが終わったことを実感した。起床から22時間くらいたっていると実感しつつ。

 着替えと手荷物をまとめて、“野良猫”に鍵をかけたのは二分後。

 そこに、ゼッケン17の小林さんたちのランサーⅦがゴールラインを過ぎてこちらに向かってきた。

 僕の横に停車し、運転席側の窓が開く。

「お疲れ様でした」と、先に僕は口を開いた。

 窓から首を出した小林さんが、ニタリと笑う。

「最後のSS、いくつだ?」

「9分59秒。SS6と同タイムでした」

「そうか。最後は勝ったぜ。俺たち、58秒だった」

「9分台ですか?」

「アタボーよ」

 皮肉と勘違いした小林さんが苦い顔で吐き捨てた。

“アタボー”とはたぶん、昔のヤンキー用語で“当たり前”という意味なのだろう。

「2ステの減点はどうでした?」

「“1206”でしたよね、石川さん」

「そう。1ステで大きくやられてたから、結局、追いつかなかったと思う。…だろ?」

「はい。こっちは2ステが“1212”でした。じゃあ、3秒差で?」

 かろうじて、勝ったようだ。

 胸の奥で、大きくガッツポーズをとった。

「いいや、3点差。小林君は最初のジムカーナSSで服部君に2.6秒やられてたから、あそこで13点のハンデを背負ったことになる。ジムカーナの差が勝負の分かれ目になった。今度の特別ルールなどなければな。ジムカーナの減点が1秒1点で林道のラリー区間と加算するなら、こっちが勝っていた。でも、結果は負けだ」

“野良猫”チームの立場からすれば、勝負に負けて、ラリーに勝った…っていうことなのかもしれない。ジムカーナSSの特別ルールに救われたことになる。

 とにかく“勝ちは勝ち”だ。

「缶コーヒーの争奪戦では何とか踏みとどまれたけど、面白かった。で、これは勝負に関係なく、俺からのおごりだ。麓のコンビニで今買ったばかり。服部君にも渡しといてよ」

 そう言って、小林さんは良く冷えた缶ビールの6本セットを差し出した。

 僕は反射的に受け取った。

「ありがとうございます!!」

 本当は“いや、これは戴けませんよ”と、言うべきなのだと解っていたが、僕の中のケダモノがそう口にすることを断固として拒否した。服部は酒が飲めないということも、伝えておかなければならないと思ったけど、それも言いそびれた。

 あまりにも美味そうで、喉の奥がキュンとした。

「じゃあ、中で一緒に…」

「いや。残念だけど俺、朝から仕事だ。ちょっと前に、急な連絡がきてさ。石川さんも、昼前に用がある。少しでも家で寝たいから、コントロールシート出したら、すぐに帰るわ。また、走ろうぜ」

「はい。服部に伝えます。ありがとうございました」

 僕はきびすを返して、ドライブインに向かった。

 入り口をくぐるときに振り返ると、こちらに背を向けた小林さんがちょうどボンネットのゼッケンを剥いでいるところだった。暗がりのその後姿が、強く印象に残った。

 中に入ると、ロビーの受付に中年のオフィシャルがいた。

「お願いします」

 コントロールシートを提出しながら、言った。

「はい、お疲れ様。おっ、そいつも一緒に提出していってくれよ」

 缶ビールを指差しながら、中年オフィシャルが笑った。

「いや、とんでもない。ダメですよ!」

 つい本音を口にした僕を、オフィシャルがまた笑った。

 奥の休憩広間に向かうと、あちこちで打ち上げの宴会が始まっていた。

 ただしキャッシュラリーのときに比べれば、だいぶ静かだ。たぶん、みんな疲れきっているせいだと思う。その中でも、一箇所だけバカ騒ぎをしている一画がある。

 言わずもがなの、“Jリーグ”一派が屯しているあたり。

 もちろん、あこそに行くつもりはない。

“歩きウンコ”先輩もいたけど、今日のお礼と結果報告は後で言いにいけばいい。

 僕は辺りを見回し、小野先生のサービスチームが車座になっているところを見つけた。

 案の定、服部はそこにいた。

「やあ、水谷さん」

 近づいていくと、先に口を開いた柳沢さんがにこりと笑いかけてくれた。

「中継では、いろいろありがとう。ところで、小野先生たちは?」

「ついさっき、携帯に連絡が来ました。完走できたそうです」

 吉沢さんが教えてくれた。

「それは、よかった」

「これから“いろは坂”に向かうって言ってましたから、まだ20分くらいかかるんじゃないかしら。桜井君、体調悪いからゆっくり上がってくると思います」

 僕は服部の横に腰を下ろした。

「俺、風呂行ってくる。お前、どうする?」

「僕は、これ」と、缶ビールを差し出した。

「小林さんたちから貰った。差し入れ、だって。“服部君にも渡してくれ。また走ろう”って言われた」

「なんだ?缶コーヒーがビールに化けたのか?」

「あの勝負は引き分けだって。最後は、1秒負け。だから、一勝一敗」

 服部の顔が露骨に歪む。

「チェッ!

 あれだけ踏んで、怖い思いしたのになあ。ま、向こうも同じか。で、小林さんたちはまだ駐車場?」

「たぶん、もう帰った。明日、二人とも用事があるんだって。いや、今日か」

 僕はビールのプルリングを引きながら言った。

「じゃ、まだ間に合うかもしれねえ。風呂に行くついでに挨拶してくるわ」

「これ、みんなで飲んじゃうぜ。どうせ、お前は飲まないし」

「ああ。いいよ」

 僕はビールを喉に流し込みながら、服部が走り出す様子を、手を振って見送った。

 メチャクチャ美味い、とは思ったが、なぜかキャッシュラリーのときほどではないように感じた。朝からの気疲れが、急に緩んだ反動なのかもしれない。

 それでも地獄から天国に帰りついたようで、気分はすっかり宴会モードにシフトした。

 それから20分ほどして、小野先生たちが戻ってきた。

 サービスで一緒だったBクラスのクルーたちも一緒だった。

「やあ、お帰りなさい。お疲れ様でした!」

「お疲れ様、水谷さん。服部さんは?」

「風呂に行きました。まだしばらく、戻らないと思います」

 小野先生は僕の対面に腰を下ろした。

 その横に、青白い顔色の桜井君が座った。

 疲れてはいるものの、その晴れやかな表情にこのラリーの結果が宿っている。

「先生、完走ですね。桜井君も、おめでとうございます」

「どうもありがとう」と、先生が答える。

 桜井君は力なくうなずいたけど、ほんとうに嬉しそうだった。

「君たちの順位はどうなりましたか?」

 小野先生に聞かれるまで、気づかなかった。

 こう問われるまで、小林さんたちとの勝負ばかり意識していて、自分たちの最終的な順位がどうなっているかなど、ろくに検討していなかったことに逆に驚いた。

 ま、正直に言えば、僕はビールと宴会に夢中になっていたのだけど。

「はい。ぜんぜん解りません。2ステで二台リタイアが出ましたから、運がよければ7番ぐらいじゃないかと、途中までは考えてましたけど」

 小野先生は小さく笑う。

「まあ、そういうものかもしれませんね。でも、上位陣で波乱が起きたみたいですよ。上町さんたち“Jリーグ”の面々が駐車場で深刻な顔をしていましたから」

「へえ。そうなんですか」

 “Jリーグ”一派がいるあたりをちらりと覗き見たると、いつの間にか馬鹿騒ぎは終わっていた。森さん、上町さん、村木さん、西川さんの姿も見えない。四谷さんたちを中心に、なにやらヒソヒソ話をしている。悪巧みと言うよりは、不吉な噂話をしているような。

 トップグループに何が起きたか知らないけど、たぶん、“野良猫”の順位には関係ないと思う。少なくとも中継までの減点には、大きな隔たりがあったのだから。

 井出さんたちはリタイアしなかった。たぶん風邪の熱を克服した岩下谷さんの根性に、上町さんたちが敗れたのだろう。つまり、タイヤを無駄にして金メダルを逃したのだ。

 少しだけ、いい気味だと思った。

 小野先生たち四人が加わって、居酒屋の打ち上げ宴会のような輪は更に盛り上がった。

 それから15分ほどして、服部が風呂から戻った。

「よう、おかえり!」

「おう。すっかり出来上がってるな。ところで、アキラ。今、風呂でさ。噂話で聞いたてきんだけど、どうやらCクラスの優勝、村木さんらしいぜ」

 僕の横にドッカリと腰を下ろした服部の姿をぼんやりと見ながら、その言葉の意味を考えた。と言うか、服部のこの台詞を僕は理解できなかった。

「…へ?」

「村木さんて、引退の噂がたっていたJリーグの方ですよね。1ステだって、トップから100秒以上差があったと思いますけど」

 だいぶ顔色の良くなってきた桜井君が服部に質問した。

「うん。あれ、みんな嘘だったみたい。最初の荒船のハイアベも、オンタイムで減点ゼロだったそうだ。引退話も、西川さんが村木さんと図って、ラリーの開催前からネットに流していたらしい。中継の暫定記録も、デタラメな数値を書いていたんだと」

 ふいに、中継テントでの村木さんの顔が浮かぶ。

 ニタリと笑って、『ベベン♪、ベンベン♪』と奇妙な鼻歌を口ずさむ姿が…

「津軽三味線…」と、知らぬ間に僕は呟いた。

「なんだ?」

 服部が振り向いた。

「服部。おまえ、さっき言ったよな。“津軽三味線みたいな鼻歌”って」

「えっ?ああ、村木さんの鼻歌のことか」

「僕は、あの底意地の悪い人からヒントを貰っていたんだよ。本当に三味線弾いてたんだ」

「…なんのことか、さっぱりわからん。なんだ、“三味線弾く”って?」

 僕はどう説明していいか解らず、戸惑って周りを見回した。

 すると、小野先生と目が合った。

「それはつまり、麻雀なんかの駆け引きでよく使う、適当に嘘と真実を織り交ぜて相手を混乱させる心理戦の話術のことですね」

「はい。解説、ありがとうございます」

「…へえ。で、なんで、その駆け引きをおまえなんかに言う訳?」

「わかんない。でもたぶん、誰かに言っておきたかったんじゃないのか?秘密の悪巧みって、本当は口にしたくてしょうがないもんだろ」

「つまり、“王様の耳はロバの耳”ってか?」

「じゃあ僕は、“木の根”か。でも、きっとそう。だから、優勝争いの当事者でなきゃあ、誰でもよかった」

「それって、ペナルティにならないんですか?」と、桜井君が聞いてきた。

「中継で嘘の申告をするなんで…」

 なるほど、と思って桜井君を見ながら僕はうなずいた。

 しかし服部は首を振った。

「ならない。だって、中継の暫定表は“自己申告表”になっていたろ。オフィシャルが公式に出したものじゃないからいい、…ってことらしい。俺も、知らなかったよ」

 そんなことがまかり通っているのは、ラリーという奇妙な競技だからなのか。

 どうも釈然としなかった。暫定表は、オフィシャルが表示したものだったのに。

「つまり、“書き間違えた”って言えばそれまでだってことですか」

 桜井君が僕の表情を伺いながら言った。

「そういうこと。それと、中継での森さんのタイムも違ってたんだって。八神ナビが計算間違いをしていた。本当は50秒くらい“遅かった”らしいぜ」

「じゃあ、森さんと八神さんも陰謀の仲間だったわけ?」

「いや、天然。あの姉さんは、たまにやるらしい。西川さんは自己申告表にデタラメな数値を書いたけど、コントロールシートには正しい数値を書いていたそうだ。だからわざと、タイムアウトギリギリの時間に提出したんだって。廻りに申告表の嘘がばれないように。でも八神ナビは、元のコントロールシートの計算を間違えたらしい。で、森さんはぬか喜びをして、権藤さんに話しかけた。ジムカーナSSのタイムも良かったから、舞い上がって喜んでいたんだろうな。その気持ちは、俺にもわかる。で、沈着冷静な見た目とは裏腹に実は熱くなりやすい権藤さんは、頭に血が上った。そりゃあ、そうだろう。勉強の出来る中学生が、大学教授に“お互いに頑張ろうぜ”と、同じ目線でライバル宣言をしたようなものだからなあ。権藤さんの名誉のために言えば、森さんのライバル宣言でプライドが傷ついたって訳じゃない。新車に乗り換えて不安のあった権藤さんには、プレッシャーになったはずだ…、ってこれは風呂でこの経緯を解説してくれた西川さんの台詞だけどな。“鶴ちゃんのチョンボのおかげで、俺たちや森さんの順位も上がった”って喜んでた」

 違う、と僕は直感した。

 もちろん、森さんや八神ナビが嘘などついているとは考えてはいない。

“気をつけよう。暗い夜道と鶴姉さん”という、何となく疫病神を連想させるような慣用句を思い出した。

「まあ、お気の毒」と言っていた“鶴姉さん”。別に本人には悪気はないのに、いつの間にかごく自然に陰謀に加担する結果となっていた。

 林道SSで好タイムが出ていたと信じていた森さんが、権藤さんに対して互いの健闘をたたえあうように仕向けたのは、村木さんの助言によるものだった。予め西川さんによって、“森さんに追い抜かれたら村木さんと一緒に引退だね”って吹き込んでおいて…。

 複線と偶発的ミスを利用する、悪魔の知恵。

「服部。岩下谷さんて、どこのチームだっけ?」

「ああ。たしか、“GTエース”。…あれ?西川さんの“GTスペック”と兄弟チームだ」

「じゃあ、西川さんは、岩下谷さんが風邪を引いていたことを予め知っていたのかもしれない。中継では、初耳みたいな顔をしていたけど」

「ああ、確かに。で、おまえ何が言いたいの?」

「岩下谷さんの風邪の具合。例えば、40℃近い高熱を押して岩下谷さんが出場していると誰かが上町さんに吹き込んだとする。命に関わるほどの高熱なら、医者の井出さんでも気を使って多少失速はするものと上町さんは考えた。でももし、岩下谷さんが微熱程度の鼻風邪だったら、井出さんの処方した風邪薬で抑えられたんじゃないか。つまり、西川さんが中継で驚いた顔をしたのは、岩下谷さんが微熱程度の風邪をひいていたことを知っていたのに、それを上町さんが高熱の風邪と誤解していたことによるものだったのかも」

「じゃあ、西川さんは、意図的に上町さんの誤解を解こうとはしなかった…」

「それどころか、積極的にその誤解を利用した。いや、誤解するように仕向けたのかもしれない。つまり、上町さんの誤解を誘導した人物が、そのことによって得をした…」

「村木さんは、スタート前から、このラリーの中心にいた…ってか」

「そう思う。キャッシュラリーの時の印象だけど、上町さんて、事情通だ。口コミなのかネット系なのか知らないけど、とにかく情報で武装して優位に立とうとするタイプ。そしてラリー当日までの間に、村木さんの“三味線”がどこからか流れた。村木さんの引退、井出さんのナビの体調不良、オンボロ中古で参戦する堀井さんの件とか…」

「おまえ、考え過ぎじゃね。酔っ払いの妄想みたいに聞こえるぜ。堀井さんや権藤さんのリタイアなんか、どっちかって言えば偶然のことだ」

 服部は苦笑いを浮かべる。

「確かに。でも、そう思うんだ。幾つかの仕掛けと幾つかの運が重なって、勝負の流れを作り出し、それを“魔神”村木さんは巧みに引き寄せた。それこそ麻雀の流れみたいに…」

 はじめに、車ありき。加えて求められる、運転技術や知力に体力、それと精神力。情報と駆け引きも大事な要素。でも、それだけでは勝負の決まらないラリーという奇妙な競技。

「なるほど。それも、ラリーですね。さすが、“Jリーグ”」

 小野先生は、不思議なくらい晴れ晴れとした表情でにっこりと笑った。


 それから打ち上げの宴会は更に盛り上がった。

 素面の服部も、ごく自然にその輪に溶け込んでいる。

 話題は今日のラリーの出来事にとどまらず、様々なことに広がったが、何を話していたのか後で思い出そうとしても、殆ど出来なかった。

 その一時間後には、一人、二人と宴会場の床に崩れ落ちた。

 休憩場のあちこちで高鼾が響きだしている。

 更に三十分後には部屋にいる関係者の半分が眠りに落ち、服部も毛布をかぶって寝てしまった。24時間近く戦っていたのだから、疲れが出るのも当然。

 僕は風呂に行くと小野先生たちに告げて、その場を後にした。

 戻るころには、みんな寝ているだろうと思いながら。

 ゴールが二時間以上過ぎていることもあって、風呂には誰もいなかった。

 貸切状態の広い風呂を、僕は心行くまで堪能することが出来た。

 30分後。風呂から出てくると、案の定、みんな寝ていた。

 僕は湯冷ましに、ふらりとドライブインの外に出た。

 見上げると、意外にも、鮮やかな星空が天空に広がっていた。

 数時間前までの濃い霧や強い風雨が、質の悪い嘘だったような。

 満月には少しだけ足りない月を、僕はぼんやりと眺めていた。

「お疲れさん」

 ふいに、声をかけられて振り返る。

 その方向の暗がりのベンチに、タバコを手にしている人物がいた。

「上町さんですか?」

 ベンチの男は、火のついたタバコを小さく振って肯定した。

「君らは確か、7番でゴールしたのかな」

 後ろゼッケンの僕らの順位までチェックしていたことには少し驚く。

「まだ結果が出てないから、解りません。でも、そのくらいです。上町さんは三位ですか?」

“忍者部隊”は小さな笑みを浮かべて首を振った。

「たぶん、4位。メダルも取りそこなった。タイヤを無駄にしたよ」

「えっ。じゃあ、一体…」

「優勝は村木さん。まんまと、引っかかっちまった。二年前に、同じようなブラフでやられたのになあ。SS終わるたびに、背中丸めてトボトボ歩きやがって。全く、アカデミー賞並みの演技力だった。あのオジイ、ジムカーナやダートラSSの慣熟なんか、今までしなかったのに、今日に限ってやっていたのは引退を考えて必死だったからだと思ったんだよ。それで、サーキットでは様子を見ていたの。元々あの噂だって疑わしかったから、青田君たきつけて、確かめた筈だったのに…。俺も、学習しないよなあ」

「はあ」

 悪魔の懺悔を聞いている神父の心境で僕は合いの手を打った。

「二位は、10秒差で井出君。三位には、地元の若い奴が入った。2ステで一気に上がってきた。渡辺君って言ったかな。SSは、二本ともベストだったそうだ。一本は、井出君と同秒ベスト。もう少しで、井出君も危ないとこまで追い詰められてた。井出君はあれでも、2ステで少しペースを落したんだぜ。俺のタイムと比較しながら。ナビの体調を、無意識に気遣ったんだろうよ。こっちは、もっと落ちると踏んでいたんだけど…。結局、井出君も村木さんに騙されたわけ。村木さんの本当のタイムを知っていたら、もう少しアクセル踏んだろうね。あのオジイ、オフィシャルにも自分のタイムを口止めしてたんだぜ」

 上町さんの声は、疲れた老人のようだった。

 たぶん今の言葉も、僕に語りかけたのではなく、自分自身に向けて呟いていたのだろう。

「それは、残念でした」

“忍者部隊”は顔を上げ、初めて僕がいることに気づいたような表情をした。

 もともと、向こうから声をかけてきたはずなのに。

「そう。とても、残念。悪い癖でさ。中継で優勝を意識すると、つい表彰式のコメントを考えちゃうの。で、バチがあたる。だから、1ステが調子いいときは、決まって勝てない」

「じゃあ、上町さんが普段はしないタイヤの組み替えをしたのも、優勝を確実にするためだったんですか。それって優勝のコメント考えるのと、同じことになったわけですね」

「…なるほど。気づかなかった。そうかもね」

 そう口にしながら、“忍者部隊”は立ち上がって続けた。

「65歳の村木さんとの年の差は、10歳。まったく、もう…。10年後の俺は、今のあの人の強かさに勝てるのかなあ。つくづく、先は長いと思うよ」

“忍者部隊”は、タバコを灰皿に捨てて、背を丸めてトボトボと歩き出した。

 まるで、老人の演技をしているような姿だった。

「あっ、上町さん。ひとつだけ、教えてください。染谷先生のこと、どうして知ってたんですか?」

 ふいに、“忍者部隊”は足を止めて振り返った。

 瞬間、老人だった印象が霧散した。

「ああ、それはね…」

 滑るような足さばきで、真っ直ぐに僕に向かってきた。

 ぎくりとして、半歩退き、反射的に身構える。

 出来の悪いCG映像みたいに、上半身が全くぶれずに僕の間合いに接近してくる。

 大きく見開いた両眼は虚ろ。その視界に僕の動きのすべてを捉えようとしている。

 身長と体重は、僕とほぼ同等。

 互いの間境が隣接した刹那。

“忍者部隊”の右ひざがスッとたたまれ、飛燕の速さで逆蹴りが伸びてきた。

 真横に転身しながら、左手で打ち払う。

 小脇に抱えていた入浴アイテムが同時に吹っ飛ぶ。

 かろうじて交わしたと思った直後、“忍者部隊”の右の引き足をその位置に残して踏み込んできた。そのまま右を軸足にして、左の膝蹴りが僕の水月(鳩尾)に襲い掛かる。

 左肘でそれを受けながら、反動を利用して後方へ跳んだ。

 その動きを嘲笑うように、膝蹴りから切り返した鋭い回し蹴りが、僕の目の前を掠めた。

 しかも、中段から上段への二段蹴り!

 足の甲ではなく、足低部を打突に用いる古式打撃系の攻撃法。

 極めるのが難しい、硬い“点”で急所の“点”を破壊するための技。

 背筋がゾクリとした。

 わざと外してくれたのかもしれない、と一瞬思った。

“忍者部隊”は片足立ちのまま、開いた両手を上下に構えて笑みを浮かべていた。

「速い…。確か、鶴立拳。少林寺拳法ですか」

 僕の声は、意に反してかすれていた。

「さすがに、染谷先生が見込んだだけはある」

 ふいに、“忍者部隊”の全身から迸っていた戦闘モードのオーラが消えた。

「最後の回し蹴り、本当は足刀蹴りを使おうとしましたか?」

“忍者部隊”の眉根が大きく動いた。たぶん、楽しそうに。

 そして足を下ろして、構えを解いた。

 逆に遅ればせながら、僕の全身から冷や汗がドッと汗が噴出した。

 せっかくの温泉の湯冷ましが台無しになったことには、後に気づくことになった。

「まだ現役で修行されてるんですか?」

「いや。30年前に染谷先生と立合って、辞めたの。で、代わりにラリーを始めた。以来、染谷先生とは茶飲み友だち」

 どのような試合だったのかは、何とか想像できる。

 当時二十代だった“忍者部隊”は、まだ三十代半ばで全盛期の武道家・染谷大吾と真剣勝負をして人生を変えた。恐らく、決定的な敗北を喫して。

“忍者部隊”もまた、武道家の生き様を志していたころがあったのだ。

 それにしても、上町さんの動きは30年前に引退したOBのものではない。

 まだ十分に、一流の現役で通じる体さばきだった。

「こんな不意打ち、ずるいですよ」

「武道家なら対処出来るでしょ。ストリートファイトに“はじめ!”の合図なんかないんだから。水谷君は、十分に合格。それと、俺は拳法を辞めたけど、ある意味では武道家としては現役なのかもしれない。霧の中での目の使い方は、さっきと一緒だよ。視線ではなく、視界で全体の輪郭を捉える。機会があったら、服部君にも教えてあげなよ」

「…はい?」

「意味は自分で考えよう。今日の俺は、負け犬だし」

“忍者部隊”は明るく笑ってその場を去った。

 僕はその背に向かって、本当は問いたかった重要な関連質問を飲み込んだ。

 ラリーと武道って似てるんですか、と。

 理由はわからない。

 その答は、自分で探すべきだと感じていたからかもしれない。

 また、上町さんのその後姿が、どこか染谷先生に重なって見えたからかも…。


 暫定結果の発表は、朝の六時ごろだった。

「暫定でーす!」

 オフィシャルの声に、市場のマグロのように雑魚寝をしていたエントラントたちがムクリと起き上がる。まるでゾンビのようだ。

 僕は“忍者部隊”との小競り合いの後に寝そびれてしまい、一人だけずっと玄関脇のロビーで起きていた。

 もちろん、風呂と小競り合いで抜けたアルコール分をせっせと補充しながら。

“忍者部隊”の最後の言葉の意味を考えながら。

“野良猫”の結果は、7位。8位は小林さんたちだ

 1位から4位までは、“忍者部隊”の行っていた通り。

 5位は、大野・川田組が入った。もちろん、新しく“紀”マークのガードレールを作らずに済んだそうだ。6位は、タオパイパイ“森”チームが入った。コントロールシートの計算間違いは指摘されたそうだが、ペナルティは加算されなかった。

 口の悪い人たちの噂では、森さんの“人徳”によるものだったそうな。

 森さんは大喜びをしていたことは、言うまでもない。

 そして7位の結果も、僕も服部もそれなりに嬉しかった。

「やったな、おまえら!」

 四谷先輩は僕らの肩をバンバン叩きながら喜んでくれた。

「ありがとうございます。ところで、青田さんと権藤さんはどうしたんですか」

 先輩は一瞬きょとんとした顔になり、やや間を置いてから口を開いた。

「ああ、青田…選手はもう帰った。ローダーの手配がついたから、きっと朝になる前に東京に戻りたかったのよねえ。権藤さんは応急修理で自走できるようになったから、国道ゆっくり走って福島まで帰るって言ってたそうだ。たぶんもう、家に着いてるころだ」

 三十分後、暫定結果は最終結果となり、そのまま順位は確定。

 表彰式は、更にその三十分後だった。

 シリーズポイントは各クラス10位までつくけど、賞品をもらえる入賞は6位まで。

 3位以内の入賞者にはそれぞれ、JAFの金・銀・銅メダルが授与される。

「やっぱ、スプレー缶の1本でも記念に貰いたかったよな」

 服部の言葉には素直にうなずけた。

 表彰式は、各クラスともそれなりに盛り上がった。

 最後になったCクラスは、波乱や陰謀の結果だったこともあって大騒ぎだった。

 大躍進で三位に食い込んだ渡辺組は、クラスを超えてみんなに称えられた。

 風邪をひいて大変だったという噂の岩下谷さんを、表彰式で初めて見た。

 大柄な体つきに、穏やかな表情。鼻水を垂らしながら、ヘラヘラと笑う。この鼻水怪人も、たぶん、嬉しかったのだろう。病魔にうなされているためか何を言っているのよくわからなかったけど、とにかく酒と熱による赤ら顔が強く印象に残った。

 優勝した村木・西川チームの二人は、まるで掛け合い漫才のように10分以上マイクを握って熱くしゃべり続けた。

 爽やかだった他のクルーのコメントとは異なり、上町さんたちをこき下ろす悪魔たちの啖呵は下品で粗野で、それでいて愉快で、皆に大ウケしていた。

 このとき初めて、“Jリーグ”じいさんたちがそれなりに憎まれてはいても、単なる嫌われ者じゃないと知った。

 みんながゲラゲラと爆笑している中で、唯一人、槍玉に挙げられた上町さんだけが苦い笑みを浮かべたままだった。それでもなぜか、どこか楽しんでいる様子も否めなかった。

 優勝したヤツが一番偉い。だから、マイクを持ったら何を言ってもいいのだろう。

 この人たちにはきっと、賞品やメダルよりも、マイクを持つことに意義があるのだ。

 そして、8時38分。予定の大きく伸びた表彰式も、無事に終了。

 そのまま食堂に移動し、仲良く並んで朝食を取った。

 そんな一画に、陰謀の渦中にいた“Jリーグ”一派が集う風景があった。

 互いにけなしあっていた"魔神"と“忍者部隊”は、向かい合って世間話をしながら、何事もなかったように納豆を練っていた。“タオパイパイ”と“歩きウンコ”先輩たちが、その隣で味噌汁を啜っている。“スーパースモーカー”は左手にタバコを持ち、右手に箸を握り締めて器用に両方を交互に使っている。まるで、タバコをおかずにご飯を食べているように見えた。またその隣で“鶴姉さん”と“紀マーク姉さん”の二人が並び、何を考えているのか、仲良く薄笑いを浮かべて生卵を割っていた。

 つい数時間前まで、一緒に危険な中を競っていた個人主義のラリーストたち。

 もし妖怪たちの老人ホームがあれば、きっとこんな風になるのだろうと思った。


 長い長い、とても長かった一日が、ようやく終わろうとしている。

 僕にとってラリーにどんな意味があるのか。

 そんな答などだったの一晩で解るはずがない、というのがとりあえずの結論だ。

 何十年も続けてきて、まだ先に行こうとしているオジンたちが大勢いる。服部も含めて、そんな彼らを倒そうと頑張っている若手も、大勢いる。元来、真剣に競い合っているラリーストの本質を、まだ未熟な僕ごときに理解できるはずなどなかったのだ。

 とにかく、しばらくこれを続けてみることにした。

 次は、来年。

 必ず、また!?



End


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