秀綱陰の剣・第十一章

著 : 中村 一朗

残心


 明くる日、朝焼けが山々を彩る頃。三人はほぼ同時に目覚めた。最初に目を覚ましたのは赤目だったが、僅かにその体が動いた時には秀綱と巳陰の瞼も開いていた。

 赤目は枯れ葉の中からぎこちなく這い出すと、上体を動かさぬ緩慢な足取りで北に向かった。秀綱と巳陰も身を起こし、四五間を置いてその後ろ姿を追う。朝靄の草地を抜けて獣さえ通らぬような森の中を進んで行く。それでも赤目には、勝手知った様子が窺えた。一町歩いては木の幹に寄りかかって少し休み、また歩き出す。時折、倒木に腰を下ろしたりもした。後ろからでは赤目の顔色はわからなかったが、傷の痛みと悪寒や眩暈などを圧殺する強固な意志が一切の表情を打ち消しているものと巳陰には想像出来た。

 秀綱と巳陰はひと言も口を聞かずに赤目の後をついて行く。緩やかな登りになると間もなく荒れた岩場になり、それを過ぎると再び森が始まった。やがて尾根伝いの狭い道に出て、暫く行くと緩い下り坂に変わった。その先からまた岩場が続く。

 やがて遠方に切り立つように聳える崖が現れた。崖の中腹、およそ十五間ほどの高い位置に小さな洞窟が口を開いており、その下部から粗末な縄梯子が垂れていた。洞窟の入口を朝日が照らしている事から、東に面していることが判る。いつの間にか山を迂回していたと気づいた。また、歩き始めてから一時半ほどが経過していることも。

 洞窟が赤目の住み処であることは明白だった。赤目はよろよろと縄梯子に縋り、両足と右腕だけで上り始めた。巳陰は秀綱が止めるものと思ってそれを見ていた。藁で編んだ縄は細い。赤目の巨体を支える程度が精一杯で、一度に二人が上ることは出来ない。赤目が洞窟に着いてから秀綱が上れば、途中で縄を切ることも容易である。先に秀綱が上るべきだと巳陰は考えた。が、あえて口にしなかった。その方が好都合かも知れないから。

 赤目の到着を待って、秀綱が上り始める。傷を受けている赤目とは比較にならぬ猩猩の疾さであった。その背を狙うことは出来る。だが倒せるとは思えなかったし、そのようなことも望まない。秀綱が無事に洞窟に辿り着くと、巳陰はすぐに踵を返した。

 今来た方向にゆっくり歩き出す。洞窟の入口から秀綱の視線を背に感じた。最後まではつきあわぬと言った先の約束の従い、任を終えた者が帰路につくのだ、と強く暗示しながら。恐るべき洞察を持つ上泉秀綱に如何なる疑いも抱かせぬためには己を欺く事が必須である。崖から一町のところで右に折れる。そこから先は完全な死角に入る。更に十間を歩いてから、巳陰は徐に走り出した。泉までは約一里。秀綱が絶対に追って来ぬと限らぬ以上、事を急かぬ訳にはいかない。森から岩場へ。岩場から森の中へと一気に駆け抜ける。木々の間に泉が見えてくると、巳陰は走りながら帯を解いた。

 泉の岸に剣や手裏剣などを投げ出し、着物とサラシを脱ぎ捨てて水の中に飛び込む。凍るような冷たさも、火照った体の熱を冷ますには丁度良かった。泉の中央まで泳ぎ、透明な水の中に潜る。底までは浅く、一間とない。しかも思っていた以上に視界がきく。泥を掻き立てないように慎重に探りながら、やがて目指すものを見つけた。それを手にして岸に戻る。ガタガタ震えながらサラシを体に巻くのももどかしく、背後を幾度も振り返りながら衣類を身につける。着終わるが疾いか、再び一目散に走り出した。着物の帯は走りながら結んだ。懐には泉の底で見つけた獲物。昨日赤目が放り捨てた古びた巻物がある。

 巳陰はこれが飛龍六道の古文書であると確信していた。

 赤目が処分した筈のもの。通常なら水に落ちれば墨は溶け出し、途端に文字を読むことは出来なくなる。上泉秀綱もそれで密書の処分が終わったものと考えたのだろう。だが巳陰は赤目が宙に投げた巻物を遠目で見た時、そこに描かれている奇妙な唐草紋様を見た。そして己の記憶を探り、それが南蛮の古いものであることに思い当たったのだ。以前目にした同じ模様の絵は墨を油で溶いて描かれていた。水に濡れてもすぐに滲んだりしない。もしこの密書も同じ類の墨で書かれているならば、文字を判読出来るかも知れないのだ。まして、こうして油を乾かした布で表面を包んであれば。

 水の中で冷えきった体がすぐに熱を帯び始めた。単に全力で疾走しているからというだけの理由ではない。懐の巻物が燃えるように熱かった。足を踏み出すごとに心臓に合わせて拍動するようにさえ感じられた。祈っても実現しない幸運が転がり込んできたことを認識しながら。だが、素直に喜べない。胸中には不安が渦巻く。人の世は常に帳尻を合わせるように求められる。出来過ぎたツキの後には必ず落とし穴があることを、巳陰は今までにも幾度も思い知らされてきた。無事に甲斐に戻るまで、懸念は無数にある。

 こけし沼を過ぎる頃から、万一に備えて再び警戒を強める。あれから三日。これまで桐生たちの無事を疑わなかったが、西に向かうにつれてその確信が揺らぎ始めていった。予め指定しておいた幾つかの地点のどこにも、戦いの経過や結果を記した暗号が何一つ残されていないからである。手早く敵を倒した場合は、いつ戻るか判らぬ自分を待たずに鋸引山を下りて平泉の宿で待機ように言っておいた。印はそのためのものだった。

 最後の指定地点に印がないことを確認すると、巳陰は森を出る最短の方角に向かって走った。目的は懐の密書を持ち帰ること。桐生たちの身には何かが起きたのだ。或いは全滅したのかも知れない。猿飛伸介の手に掛かって。だが、それにしては敵の姿が見当たらない。もし猿飛の側が制したなら、森は伸介の雇われ乱波で溢れ返っている筈である。だが敵の姿もない。森は墓場のように静まり返っている。

 その途中、身陰は丘に群がる烏に気づいてそこに立ち寄った。そこに、無残な姿で転がる無数の屍。烏に啄まれた死体たちは体じゅうから骨を晒し、顔も判別出来ぬほどに傷んでいた。それでもその中の幾つかは、裏傀儡の若者たちであったことを認めた。

(こいつが、帳尻合わせかよ…)

 懐中で巻物が氷のように冷たくなる。絶望とも憎悪とも異なる暗いうねりが目の奥で揺れた。が、未練と後悔を断ち切って、丘を下りる。そのまま真っ直ぐ森の外へ向かった。森の最外郭に近づいたところで、叢の先に人影を見つけた。隙だらけで歩いてくる姿に、最初は村の百姓だろうと思った。それが桐生であると知ったのはその直後だった。巳陰は十間先からふらふらとやって来る桐生の前に姿を見せた。ぼんやりとした顔が巳陰に向いた。それでも生気の失せた表情に変化はない。ただ、足を止めただけだった。

「桐生、どうした。何があった!」

 巳陰が桐生に駆け寄った。近づくと、たった三日でこれほど変わるのかと思う程に窶れていた。頬がげっそりと痩け、乾いた唇はひび割れて微かに血を滲ませている。しかしそれ以上に巳陰を動揺させたのは、狂人のような虚ろな眼差しだった。

「答えろ!どうしたんだよ!」

 それでも桐生は答えようとしない。焦点の定まらぬ目で周囲を見回している。

 巳陰の平手が桐生の頬に飛んだ。乾いた音とともに、桐生は仰向けに倒れた。再びぼんやりとした目で巳陰を見たが、その瞳に小さな種火が灯っていた。

「あ…あ。巳陰のおじさん…」

 巳陰は桐生の襟を掴んで引きずり起した。

「しっかりしろ、この馬鹿野郎!お蝶はどうした。獅子丸たちは!」

 ゆっくりと歪んでゆくその顔を見て、巳陰は最悪の事態を想像した。

 桐生は、ぽつりぽつりと語り始めた。その頬を涙に濡らしながら。


 崖から遠ざかって行く巳陰の後ろ姿を暫く見つめてから、秀綱は洞窟の内部に視線を戻した。高さは約七尺強。奥行きは三間程、横にはその倍以上ある楕円の空間であった。元は小さな洞穴だったところを、入口から左方向に掘り広げて居住し易い大きさに作り替えたらしい。壁に残る跡から、長い歳月をかけてこつこつと掘り抜いたことが窺える。

 奥には下から見上げても判らない二尺四方の落とし戸のついた掘り抜き窓が二つ。岩肌をくり貫いて造られていた。葭簀を張った落とし戸は内側から閉ざすようになっている。入口とそれらから差し込む朝の日差しで、部屋の中は明るい。手前の窓下では、土の器の中に一輪挿しの白い花が枯れかけていた。奥の窓下には暖炉を兼ねるであろう竈。傍らには薪と、焚きつけのための細い枯れ枝が積んである。部屋の奥には蔦で編んだ六畳分はありそうな大きな筵が敷いてあり、片隅に藁と鞣した熊の毛皮が置いてあった。

 その回りに散らかる様々な道具。農具や武器の他にも、箸や椀、蝋燭、蓑、風車やコケシなどの人の生活に関わる無数の小物。水桶と武器と刃物以外は、どれも使った形跡は見受けられない。それと、造りかけの土器が二つ。造り損なったらしい割れてしまったものが三つ。そのどれもが、一輪挿しの器に似ていた。

 秀綱はそれらの小物をひとつひとつ見てから赤目に目をやった。

 赤目は藁の上に横たわるところだった。ゆっくりと仰向けになり、目を閉じるとすぐに眠りに落ちた。昨夜とは異なり、ほどなく大鼾をかき始めた。秀綱は竈に火を熾して部屋を暖めた。竈の横に腰を下ろし、剣を抱え込むようにしてその姿勢で一時ほど眠った。

 その後。秀綱は目を覚ますと竈の残り火に小枝と薪をくべ、洞窟にあった竹籠と水桶を手にした。大鼾をかき続ける赤目をちらりと見てから、食料と水を捜しに森へ向かった。洞窟に戻ったのは午を過ぎた頃である。収穫は栗や山葡萄、百合の根、通草などの他に幾種類もの薬草と兎が二羽。ただし、水は近くに見当たらなかったため、空の桶を崖の下に置いてきた。秀綱が籠を両手に持ち、腰に兎をぶら下げて洞窟の入口に立ったところを、丁度目を覚ました赤目が目を向けた。揺れていた視線が兎の上で止まる。兎の首は血抜きのために既に落とされていた。後足を見なければ兎とは判らない。赤目はそれを暫く見ていたが、やがてまた目を瞑る。もう鼾はかかなかった。

 竈の上の落とし戸に兎の足を縛って逆さに吊るし、薪をくべる。背中の風呂敷を解いて中の焼米と味噌を椀に移した。風呂敷だけを懐に戻し、脇差しに小柄と鉄扇を腰に差して洞窟の外に出る。崖下の桶を手に、一里離れた泉に向かった。

 秀綱が戻ったのは一時半後。空はうっすらと赤みを帯び、陽は西に傾き出していた。空の過半を厚い雲が覆う。水を満たした重い桶を持って洞窟の入口をくぐると、中の暖かさが秀綱を包んだ。朝から比べれば、ずっと冷え出したことを知る。椎茸や占地を包んだ風呂敷を背から降ろして、寝息も立てずに眠ている赤目の様子を覗いた。

 肩口の傷が化膿していないことを確認する。赤目は前と同じ姿勢だったが、ずっと眠り続けていた訳ではなかったらしい。籠の中にあった通草と山葡萄が消えていた。通草の殻の燃え残りが竈の中にある。実は赤目の胃に納まった。

 秀綱は焼米を口に入れると、薪を拾いにその日三度目の外出をして日暮に帰って来た。戻るとすぐ、灯り代わりの竈の炎を頼りに兎をさばく。慣れた手つきで皮を剥ぎ、腸を抜いた。散乱する小物の中から見つけた小さな鍋に水を入れて、ぶつ切りの臓物を放り込んだ。それを竈にかけようとしている時、赤目が秀綱に顔を向けた。敵意の視線で秀綱を睨む。秀綱は鍋を置いて無表情に見つめ返した。そのまま時が過ぎてゆく。

 鍋の水が湯になり、やがてぐらぐらと煮え出した頃。赤目は険しい顔を天井に向けて目を閉じた。敵意の熱気を肌の下に滾らせたまま。ちろちろと燃える竈の炎はその横顔に鬼面の影を造り出し、藁から覗く剛毛の生えた素肌を血を塗ったように赤く照らした。

 秀綱は鍋に水を足してから、兎の腿肉を小柄に刺して火で焙った。肉汁が滴り落ちて香ばしい匂いが洞窟を満たした。頃合いを見て、塩をふって頬張った。もう一本の腿、胸、背、前足と、それを繰り返して四半時後には兎一羽分の骨が残った。

 肉を食べ終えてから、鍋に味噌と薬草と焼米を入れて火を加減しながら更に煮込む。随時少量の水を加え続けて、一時後。目を覚ました赤目の横に、草粥の入った椀を置いた。

 赤目はそれを見ると、添えられていた箸など無視して、苦い味もかまわずにがつがつと貪り喰った。喰い終ると敵意の目を秀綱にちらりと向けて、また眠りにつく。

 秀綱はまだ粥が半分以上残る鍋を竈からどかして、新たに薪をくべた。壁に背を預けて座り、深い吐息を漏らす。そして長い一日を終えた。

 あくる日は雨だった。夜半から降り出した小雨は時を追うごとに雨足が強まり、朝には嵐のような大雨になった。前日に十分な枯れ枝を確保していたので、乾いた薪に不自由はしない。明け方頃、赤目がふいに身を起こした。それに応じて秀綱の目が開く。赤目は突然立ち上がり、桶に口をつけて水を飲んだ。じっと見つめる秀綱の視線を無視してぎこちない動作で縄梯子を下りていった。それでも秀綱の姿勢は変わらない。不動のまま無表情で入口を見ている。四半時ほど過ぎた頃、赤目は雨中から戻って来て濡れた体を藁の上に横たえた。傷口から少しだけ新しい血が滲んでいた。赤目の横臥に合わせるように秀綱も目を閉じる。岩肌を叩く雨の音と、薪の爆ぜる音。炎に揺れる影。二人が中にいるにも関わらず、洞窟から人の気配が消えた。冬眠する獣たちのように。

 雨は夕暮れ前にやんだ。空の水桶を手に外に出てゆく秀綱の後ろ姿を、赤目は寝たままでじっと見据える。赤目からは見えなかったが、秀綱はろくに手も使わずに縄梯子を下りていった。やがて桶に水を満たして一時後に戻った時には、辺りはすっかり暗くなっていた。丁度、昨日水を汲んで戻った刻限と同じ頃であった。桶を手に、濡れた枯れ枝を小脇に抱えて縄梯子を上がってくると、赤目は大汗にまみれて眠っていた。息が荒い。肌に触れずとも、手を翳すだけで高熱に苛まれていると判る。だが秀綱はその症状を看ただけで何も手を下さず、昨日獲った兎を昨夜と同様の手際で焼いてひとりで平らげた。

 赤目はあくる日の昼近くまで眠り続けた。目を覚ますと、竈の上で煮えていた草粥と桶の水を餓狼の勢いで胃に流し込んだ。その時には秀綱は洞窟にはいなかった。半時後に秀綱が籠に食菜と五匹の大きな野鼠を入れて戻った頃には、今度は赤目の姿がなかった。結局、夜になってやっと二人は洞窟で顔を合わせた。秀綱が草粥を煮ていると、赤目の姿が入口の闇に浮かんだ。その唇と髭には、べっとりと何かの獣のものと覚しき血がついている。右手には、草地の泉に放置されていた斬馬刀があった。それを握ったまま秀綱を険しい目つきで睨みながら、藁の上に身を横たえる。暫くは眠ろうとはせず、ギラギラと光る目で竈の火を見つめていた。秀綱は赤目の顔の横に粥を置いたが、赤目は見向きもしなかった。半時後に目を閉じる最後まで手をつけなかった。秀綱は粥を鍋に戻した。

 洞窟に来て四日目と五日目は、三日目までと同様に過ぎた。赤目は一日の大半を眠りに当て、目を覚ますと何処ともなく姿を消し、一時か一時半で帰ってくる。日に一度は口の回りを何かの血で汚していた。秀綱がいない時は造り置きの薬草粥を喰い、桶の水を飲んだ。秀綱もまた明るいうちの大半を外で過ごした。自分が作った粥には手をつけず、専ら獣の肉や椎茸、百合根などを焼いて口にしていた。

 そして六日目の夜。秀綱は赤目の傷の具合を確かめようとした。傷口が完全に癒着していたなら、もう糸を抜いた方が良いからである。赤目が寝ているうちに布を解き、血止めを塗った竹の皮を取った。傷のまわりの血と膿は塗り薬と共にとうに乾き、傷口も塞がっていた。が、傷口をよく見て、ようやく既に抜糸されている事に気づいた。

 突然何の前ぶれもなく、深い眠りにあると思われた赤目の右手が蝙蝠の様に閃いた。素早く複雑な軌跡を描いて、赤目の上に身を乗り出していた秀綱に伸びる。その掌には六寸程の長さの黒い針が握られていた。左脇下から正確に心臓を狙って。しかしその手首を、秀綱は無造作に左手で押さえた。瞬時に見開いた赤目の双眸から、封じていた憎悪と殺気が迸る。が、構わず秀綱は肘と手首の急所を圧迫して赤目から暗器を奪い取った。

 それは針ではなく、握りの部分に幾重にも紐を巻いた肉厚の竹串だった。暗がりでは判らぬように、紐まで黒く塗られていた。先端は鋭い。人体を貫くには十分である。

「直りかけた傷が、また開いてしまう」

 秀綱が無感動に囁いた。言ったそばから、肩の傷口にうっすらと血が滲んできた。赤目の腕から力が抜けてゆく。だが、闇夜よりも暗いその瞳の狂気に変化はない。永遠に癒されない孤独が、人の世の一切を拒絶して牙をむいている。流す血で憎悪を養うために。

 秀綱は串の先端を嘗めた。蝮の毒の味がした。口に入れても胃に落ちれば溶けて無害なものになるが、血に直接混じれば死に至る。赤目は秀綱の隙をついて殺すつもりでいた。傷の回復を自ら確かめて抜糸した後に布を巻き直したのもそのためだった。幾度か赤目の口回りに残っていた血は、毒を採取するために殺した蝮のものであった。その余録に、良い滋養となる蝮の生き血を飲み、生肉を喰らったのである。

 秀綱は串を竈に放り捨てると、いつもの場所に腰を下ろして目を閉じた。赤目は暫くの間その姿を睨んでいたが、やがてまた同様に眠りに落ちた。

 七日目。赤目は洞窟を去った。

 朝から降り出した小雪が冬枯れの森を静かに舞う。昼過ぎには、洞窟から見える景色の上にうっすらとした白銀の薄化粧を施していた。

 昨夜以来、赤目は身じろぎもせずにこんこんと眠り続けていた。秀綱はすっかり日課になった薪拾いの後、野鼠の肉と占地を焼いて口に入れながら草粥を煮た。煮え上りを待たずに水桶を手に洞窟を離れた。雪が降り積もれば、水桶を抱えての道行きは難儀になる。それを案じてのことだった。剣を腰に秀綱が洞窟を出る時も、赤目は顔を上げさえしなかった。草地の泉から戻ったのは一時後の日暮れ前だった。洞窟に赤目の姿はなかった。だがそれ以上に、内部の様子が一変していることに秀綱はすぐに気づいた。

 洞窟から消えたものが幾つかある。赤目の斬馬刀。秀綱の脇差し即ち、愛洲移香斉から授かった叢雲剣。鍋の中の草粥。熊の毛皮と、窓辺にあった一輪挿しの土の器。この七日の間そのままだった枯れた白い花の骸は、竈の残り火中で灰になりかけていた。

 その代わりに、新たに残されたものがきちんとたたまれた秀綱の風呂敷の上に置かれていた。ひとつの熟れた柿の実と、汚れた古い冊子がひとつ。冊子は飛龍六道の和訳であった。柿の実を食べながら秀綱は冊子を手にしてざっと中に目を通した後、それを竈に放り込んだ。乾いた薪と小枝を放り込んで火勢を煽った。その上から赤目が寝床にしていた藁をかけた。この七日間、いつも座っていたところに腰を下ろした。炭の爆ぜる音を聞きながら、まどろんでは、目覚め、薪と藁を竈にくべてはまた眠った。

 夜半には雪がやんだ。その半時後には雲が切れ、鮮やかな星々が冷たく清浄に済んだ夜空に覗いた。誰の上にも等しく夜は訪れ、やがては等しく明けてゆく。そして朝焼けが雪景色を紅色に染める頃、上泉秀綱は洞窟を後にした。仰ぎ見ることのできる最後のところで一度だけ振り返り、口の中でぽつりと呟いた。

「これで、さらばだ…。愛洲小七郎惟修殿」



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