秀綱陰の剣・第十章

著 : 中村 一朗

お蝶


 お蝶は気を失っていた訳ではなかった。

 倒れた理由は、傷の程度を知るまではむやみに動かぬ方が良いと判断したからである。深手であることは間違いない。しかし、刃が腸を切り裂いていないであろう事は匂いで判る。下手に動いて刃が臓腑を傷つけるような振舞いは避けたかった。もし臓腑が傷つけばこの山中では絶対に助からない。それ故に小刀を引き抜く訳にはいかなかった。だがそれでも背後の男の絶命を感じた後、ゆっくりと上体を返して近くの幹に背を預けた。

 腹部からは木に竹皮の握りを巻つけた小刀の柄が突き出ている。五寸以上ある刃がお蝶の腹の中に収まっていることになる。腰から胸にかけてサラシをきつく巻つけていたために、傷口は広がらずに済んだ。それでも呼吸をする度に痺れるような鈍い痛みが疼いた。なぜか腹の痛みは手足の指先でも感じられた。不快な悪寒に全身が小刻みに震える。出血も決して少量ではない。サラシの過半が既に赤く染まっている。

(死ぬのかな、あたし)

 何の感慨も抱かずに漠然と考えた。今日の四人を入れれば、この二十日ほどの間に七人を殺したことになる。次に自分の番が来ても不思議ではない、とも思う。

 仲間の二人が弓でやられた直後から、お蝶はひとりで四人を倒す事を考えた。そのためには相手を分断する事。虎太郎と善蔵にとどめを刺す二人と、自分を追う二人に。しかし思惑通りにはいかず、最初の追手は三人になった。お蝶は三人を待ち伏せ、眠り香を使った。強過ぎず弱過ぎぬ風を選んで、二度。それで二人を眠らせたが、残りのひとりに気づかれた。男は口に何かを入れると、風向きからお蝶の位置を察して猛然と向かって来た。が、お蝶の技は男に勝っていた。男を倒してから二人の首を掻き斬り、最後の追撃者に備えて手早く仕掛けを施した。殺した三人の忍び刀を抜いて三か所の枯れ葉の中に隠した。更に五本の傀儡糸を周囲に張っておいた。三本の刀と五本の傀儡糸のひとつずつがお蝶に勝機を呼んだ。勝ったと言っても良いのだろう。四人を倒す目的は果たしたのだから。特に最後のひとりは自分よりも強かった。相打ちにはなったが、まともに戦っていれば先に死んだのは恐らく自分の方であった。相手は四人消え、こちらは三人が消える。

 お蝶は腹から生えている血染めの小刀に目を落とした。自分と死を繋ぐもの。今までにも多くの血を流させて来たであろう忍びの武器。それも間もなく自分と共に葬られる。

(でも…)

 この場で死ぬのは嫌だった。自分が殺した者たちの死臭に塗れて同じ地獄に落ちて行きたくはない。せめてもう一度、仲間たちに会いたかった。

 お蝶の脳裏に桐生の面影が浮かんだ。ひと月ほど前に、味噌を塗った大きな握り飯を伏せ目がちに差し出した桐生の笑み。その傍らでは時雨も微笑んでいた。これ、潰れちゃっているね、とお蝶が言うと、焼けば大丈夫さと、桐生がむくれた。かたちの崩れた大振りの握り飯をふたつ、炭火で焼いて三人で食べた。決して美味しくはなかった。でも、とても嬉しかった。あれは一本松の館裏の出来事。ついこの間の事が、遠い思い出のように懐かしい。あの時はまだ、お蝶は人殺しではなかった。

 お蝶は木にすがりながら立ち上がった。呼吸を乱さぬようにしようとすると、目が眩んだ。痛みは余り感じなくなり、悪寒は逆に激しくなっている。

 刀の鞘を杖代わりにして歩き出す。少しでも遠くへ。この場所から離れたい。少しでも近くへ。桐生たちとの合流地点に。もう一度、会いたかった。遠くから一目でも…

(桐生…桐生…)

 その思いだけがお蝶を支えた。右手で腹を押さえて、転ばぬように歩き続ける。倒れたらもう二度と起き上がれないような気がした。一歩踏み出す毎に傷口から血が流れ、サラシを伝って下腹部から足を濡らした。痛みよりも痺れが手足を震わせた。それが全身に悪寒を呼ぶ。苦しくないといえば嘘になる。でも、辛くはない。

 お蝶は泣いた事がなかった。だから今も、自分が泣いている事に気づかなかった。次々に溢れる涙が、お蝶の頬の返り血を少しずつ洗い流していた。


 桐生とその仲間五人はお蝶たちとの合流地点に急いでいた。

 先頭に桐生。五間後方に五人が散在する。低木の葉陰や叢に常に身を隠す低い姿勢で、西へ向かっていた。皆が桐生の慎重な足取りに合わせて。

 先程の戦いから四半時近くが過ぎている。死線をくぐり抜けた緊張が解けて、気の緩みから来る疲労が体に表れる頃合いだった。敵と戦うには望ましくない状態である。途中、幾度か長短を組み合わせた複雑な指笛が森に谺する様を耳にした。何らかの事を伝える敵方の連絡手段であるとは気づいたが、その内容までは判らない。

 やがて二町ほど前方に小高い丘状の藪が現れた。そこを抜ければ、目的地は近い。桐生はなるべく早くお蝶たちと合流し、互いの無事を確かめてひと息つきたかった。が、直感に促されて足を止めた。仲間たちをその場に待機させ、丘から二十間の位置まで叢の中を今まで以上に気遣って接近した。杉の巨木がそこにある。丘に近づきながら、罠を仕掛けるには好都合な場所と思った。同時に、敵もそう考えるかも知れない、とも。

 杉に辿り着いて前方の丘の様子を窺う。特に異常は見受けられない。しかし、何かが変だった。少し考えてから、桐生は杉に登った。丘の方からは死角になるように気を配りながら。丘を十分に見下ろせる高さまで来ると、枝の葉陰から覗き見た。そして予感の正体を知った。丘にある低木群と落ち葉の量が不自然な釣合であったのだ。また、落ち葉溜りに人為的な偏りが認められた。まるで周囲から落ち葉をかき集めたような。

 桐生は注意深くそれらの周囲を観察し、ようやく丈高い橡の木の上に人影を見つけた。一見、木の瘤に見える擬態である。地表から見上げただけでは絶対にわからない。上から見下ろす位置にいる桐生だから、何とか発見できたのだ。見つけにくい位置にいるということは、襲撃しにくい位置にいることを意味する。見張りの手元と覚しきところから細い糸らしきものが三方に降りている。合図のための紐であろうと推察した。

 その見張りが彼らを狙う敵であることに疑いの余地はない。四人で一組。ならば、他の三人は周囲のどこかに身を隠している。

 桐生は上った時と同様の気配りで木から降り、仲間のところに戻った。

 五つの視線が桐生に偵察の結果を求めている。餌を待つ犬のような目。彼らの依存心への嫌悪に桐生の口元が小さく歪んだ。先程の件で余計にその傾向が増幅しているらしい。桐生は彼らを下忍と見たくはない。仲間でいてほしかった。が、それを圧殺して。

「やはり罠だった。おれたちを待ち伏せていやがる」

 桐生は見て来た状況を簡単に説明した。樹上の見張りと、恐らく地中に身を潜めているであろう三人について。先程の自分の奇襲を思い浮かべて比べながら。

「それで、どうすればいい。先に見張りを殺るのか」

 獅子丸が問う。緊張と不安がその瞳の中で交錯している様がありありと判った。

「いや。一撃で倒す方法がない。おれと霧牙と蒼気が囮になる。奴等がおれたちに気を取られたら、獅子丸たちは側面と背後から襲え」

「なるほど。向こうはこっちが三人一組と思っている。そいつが付け目だな」

 獅子丸の問いに桐生が頷く。桐生がすっと指を立てた。三度振って元に戻す。六人は頭の片隅で数を追い始めた。同じ拍子で無意識に数えるように日頃から訓練を積んでいる。

「八百まで数えて事の急変がなければ、予定通りに」

 獅子丸は頷き、二人を従えて森の奥へ消えた。丘を大きく迂回するためには時がいる。桐生たちは暫く待ってから腰を上げた。霧牙と蒼気は臆病である。それが囮としては重要な点であった。相手の殺意に対して桐生以上に敏感に反応出来るからだ。

「そろそろ行く。相手がどんな得物を使ってくるかは判らないから、奇襲がきたらとにかく最初は逃げろ。危ねえと思ったら、遠慮はいらないからな」

 二人は真剣な面持ちで頷いた。怯えている。犬の目から兎のような目に変わっていた。それで良い、と桐生は思う。今は犬よりは兎の方がずっとましだ。

 三人は桐生を先頭に散開して出発した。低い姿勢でゆっくりと進む。やがて藪の間に杉の巨木が見えてきた。そろそろ見張りの視界に入る位置に来る。丘からの距離にして約三十間。見通しさえ良ければ、弓なら十分に狙える。桐生は二人の様子を盗み見た。二人とも汗で顔を光らせていた。正面の丘のみならず、周囲への気の回し様は桐生の期待以上のものだった。彼らの臆病な精神に依存心はない。技における天性の才と同様に、それも忍びとして生き残るには必要な素質のひとつであった。

「桐生、本当に奴等はあの岡にいるのかな」

 霧牙が小さく呟いた。桐生が足を止める。二人もそれに従った。

「どういう意味だよ」と、桐生が問い返す。

「おれたちは敵が四人だと思っている。でも、奴等だって二組が合流しているかも知れないぜ。さっき、指笛を聞いただろう。何か企んでるってこともある」

「だから、こうして囮になってるんだ。獅子丸たちが伏兵どもに奇襲を掛けたら、こっちも丘まで走る。後は成り行きさ。大丈夫だよ。勝算はある」

 霧牙が指摘したことについては桐生も考慮していた。口に出さなかっただけである。もし敵が四人だけであるなら、わざわざ囮などに頼る必要はない。力押しで斬り込めば良いのだ。先の戦いから相手の技量を推察して、六対四の戦いなら必ず勝てる、と踏んだ。六対六でも、まだ有利であろう。だが、六対八では不安が生じる。囮を使うことで相手が八人の場合でも六人に減らすことが出来る。そのための奇襲の策であった。

 桐生たちはそのまま動かない。脳裏の数字が八百を過ぎ、何の合図も来ないことから獅子丸たちが無事に配置に着いたものと信じた。

 桐生たちは緩やかな足取りで再び前進を開始した。やがて見張りの視界に入る辺りだった。三人の気は極限にまで張りつめている。恐らく弓で狙ってくるものと予想していた。丘までは、約二十間。正面から微風がそよぐ。その中に幽かな煙の匂いを嗅いだ。直後、三つの乾いた炸裂音が森に響く。三人はほぼ同時に反応した。桐生は低い姿勢で前方に、霧牙と蒼気は左右に跳ぶ。初弾は桐生の肩口をかすめたものの、他の二発は地面を打ち抜いただけであった。すかさず身を翻し、三人は丘を目指して全力で走った。射撃地点は丘の上である。枯れ葉を盛った地点からではない。それが桐生の気にさわった。しかし今は細かいことに拘っている場合ではない。鉄砲の狙撃であったことは三人とも悟っている。次の弾を装填する暇はない。第二撃は弓に持ち替えるものと心得ていた。だが、その前に獅子丸たちが後背を突く手筈である。さもなくば、三人の内の一人は殺られる。

 丘の上でも騒ぎが起こった。獅子丸たちが斬り込んだのだ。頭上を見上げた桐生を追い抜いて、霧牙と蒼気が獅子丸たちの加勢に駆けつけようと急いだ。臨戦態勢にある彼らにはもう怯えはない。一方、桐生の目は見張りが木の裏側に身を隠すところを捉えていた。走りながら大振りの十字手裏剣を懐から取り出し、徐に樹上の人影に向かって投げた。真っ直ぐに伸びた軌跡の先で樹皮の一部が砕け落ちる。不意を突かれた見張りは宙に身を躍らせた。堆く積まれた落ち葉の上に着地し、弾ける勢いで丘を駆け降りてゆく。逃げるつもりと見てとった。桐生は躊躇わずその後を追った。不自然な落ち葉の寄せ集めは見張りが退路を確保するためのものだったのだ。取り逃がす訳にはいかない。自分たちが六人で動いていることを他の敵に知られてしまう。丘の上では仲間たちが三対五の戦いを繰り広げている様が確認出来た。ここの制圧は彼らに任せて良い。

 桐生と見張りとは十間の差。走るほどに二人の距離が徐々に縮んだ。やがて六間ほどまで詰めた時、桐生は冷水を浴びせられたような衝撃を背筋に感じて突然足を止めた。凄じい殺意と気づいたのはその直後だった。先を逃げる見張りの前方の木陰から長身の痩せた男がゆらりと現れた。見張りもその男に気づき、桐生に振り返る。醜い笑みを投げつけて男に走り寄った。黒い渦のような殺気の中心にその男がいる。

 桐生は抜刀して構えた。見張りは男の横に立って頬を歪めた。

「ざまあみろ、小僧。てめえもこれで終わりさ」

 見張りが叫んだ。かん高い笑い声を上げながら剣を抜いた。

 桐生が二人ににじり寄る。今の間合いは四間。長身の男がスッと腰を落として鯉口をきった。桐生には男の上半身が一瞬消えたように見えた。桐生の卓越した視力を持ってしても、正確に男の動きを捉えることは出来ぬ疾さである。

 男は半歩踏み出しながら、剣を閃かせた。桐生には刃の軌跡が横に立つ見張りの首を後ろから斜めに通過したように見えた。一瞬の後。桐生は己の目を疑った。錯覚かと思ったが、過ちではなかった。見張りの首が、唖然とした表情を貼り付かせたまま宙に跳ね上がったのだ。迸る鮮血がそれに続いた。そしてその首と血が桐生に向かってきた。度胆を抜かれながらも桐生は反射的にその首を剣で払った。びしゃり、と湿った音。濃密な血の匂いが広がった。その刹那、男の姿が血煙に隠れた。更に血の飛沫が桐生の両眼に飛び込んできた。軽い痛みに目を閉じる。しまった、と思った時には遅かった。視力を奪われて怯んだ僅かな隙を突いて、男が桐生に殺到してくる。三枚の十字手裏剣を左手で放ちながら斬撃に来る様が脳裏に見えた。右手の剣を袈裟に振り下ろしてくる様が。

 瞑目した桐生は勘を頼りに斜め前方に跳んだ。耳元で剣が空を斬り裂いた。選択の余地はない。相手が自分以上の巧者なら直前の白刃の下をくぐる事が唯一の活路と悟って。

 その判断が桐生の命を救った。記憶を頼りに藪に飛び込み、真横に転じて跳ぶ。と、左肩を衝撃。それに構わず走る。目をこすり、視力を少しでも取り戻そうと必死になった。瞼を抉じ開け、藪の中に蹲るような姿勢で相手の位置を探る。左肩に刺さる手裏剣を抜きながら。その刃の匂いを嗅ぎ、毒の塗られていない事を知った。

「よくかわした、若造。良い忍びになれる」

 森の何処かからの声。その中に殺意があった。声の来る方向や距離も判らない。それでも後方からではない事だけは確かだった。距離も、恐らく十分に置いている。

(空蝉か…)

 谺を巧みに利用して己の位置を悟らせぬまま、揺さぶりをかける幻術のひとつ。声に応えれば、相手の術中にはまる。それを承知で桐生は敢えて口を開いた。

「猿飛の伸介。あんただってことは判ってるんだ。月山で見たから。でも、驚いたよ」

 きっと攻撃してくる。そう読んで桐生は素早く左の木の根元に移動した。が、意外にも手裏剣は飛んでこなかった。代わりに小さな含み笑いが聞こえて来た。

「おれを知っていたのか。まあ、いい。あれは〃屠網〃という猿飛の技だ。斬り方次第で自在に首を飛ばせる。血しぶきもだ。覚えておけ。ところで、おまえの名は」

「桐生。あんた、ひどい人だね。隙を作るために仲間を殺すなんて。…外道の忍法だ」

 再び、森の何処かからの含み笑い。その間にも桐生は次の木の根元へ移動した。

「あの男はあれでも組頭だった。おまえたち六人の技を見て、手下と仲間を見捨てて逃げ出して来た屑だ。屍になっても役に立てぬとは、余程の因業だな」

 声の来る位置が少しだけ動いている。視力は元に戻った。藪下から覗くと、前方三間の辺りに首のない見張りの体が転がっている。伸介は更にその先にいるのであろう、と踏んだ。桐生は先程伸介が隠れていた木の裏に移動した。死体の傍らに。

「こっちが六人なのを知っていても丘の奴等に手を貸さなかったあんただって似たようなもんだよ。こいつの手下だってすぐに地獄行きさ。今頃、おれの仲間に斬られてる」

 桐生は更に移動を続ける。少しでも前に。仲間のいる丘に近い方角へ。ひとりでは猿飛の伸介を倒せないと気づいた。と、左右から男の声。比較的近いところで。振り返ると、ピンと張られた幾本もの紐があった。そして太鼓のように張られた皮。空蝉の枢…

「おまえを含む六対七なら。だが、おまえが抜けた五対七なら、どうだろうな」

 桐生の頬から血の気が引いた。肩の傷の痛みさえ忘れた。術の仕掛けに気づいたからではなく、伸介の言葉に意識を抉られたためである。敵の数は四人ではなく、七人だったと伸介は告げている。困惑を誘う手口と思いながらも動揺を隠せなかった。

「…戯言だ」

「答はあの丘の上にある。急いだ方が良いぞ」

 一際高い笑い声が森の四方から響いてくる。声の僅かなひずみから、敵がこの地点から離れつつある事を直感した。いつの間にか殺気も周囲から消えている。思えばあの殺意は桐生にではなく、初めから見張りの〃屑〃に向いていたのかも知れない。

 いずれにせよ、いつまでもここに留まる訳にはいかない。場合によっては寸刻を争う。罠かも知れぬと承知で、桐生は木陰から飛び出した。手負いの獣の足取りで。

 桐生は、いつ背を貫かれても構わぬ覚悟で全力で走った。仲間たちのところへ。丘へ。

 なぜか弓矢も手裏剣も飛んでこなかった。狙えぬ位置にいるのかと、そんな考えが一瞬過る。が、心はすぐに丘にいる仲間たちの姿を求めた。

 桐生が丘に戻り着いた時には、すべては終わっていた。

 丘の上は、血と人肉が散乱する戦場跡の光景であった。斬り飛ばされた手足、腹を抉られてはみ出した臓腑、生首も二つ、三つと転がっている。首のひとつは霧牙であった。屍の数は少なく見ても十をくだらない。知っている顔と見知らぬ顔。どちらも桐生には同じように見えた。当然だった。死人になれば敵味方の違いさえなくなる。

 枯れ葉が擦れる微かな音。僅かに動くものの気配に、反転して身構えた。先程、見張りがいた巨木がある。桐生は用心深い足取りで裏手に回った。そこに獅子丸がいた。夥しい血の中で、上体を幹にあずけて足を下草の中に投げ出していた。生きてはいる。が、もうそう長くはもたないことは一目で判った。ゆっくりと弱々しく胸が動いている。傍らに寄り添う桐生に気づくと、獅子丸は蒼白な顔を上げて笑った。

「やられちまったよ、桐生。でも…皆、倒したぜ。七人とも…。奴等、枯れ葉の中に隠れてやがって…おまえがあいつを追った後に、飛び出してきやがってさ…」

 言葉を紡ぐ度に、手で押えている獅子丸の脇腹から新たに血が流れる。指と傷口の隙間から切断された仄白い腸が覗き見えた。血溜りは池のようであった。

「おれは…二人、殺った。一人は敵の長だぜ。…あ、あいつが、猿飛かも知れねえ…」

 獅子丸の首がガクリと傾く。ごぼっ、と湿った音を立てて血を吐いた。小刻みな短い痙攣を最後に、獅子丸は死んだ。丘に残る屍共の仲間になった。

 身を起こし、桐生は思う。人が、仲間が、物に変わる。ただの肉に。血と臓腑の生臭い匂いが寒風に乗って周囲に流れる。夜を待たずに飢えた冬の獣たちの糧となろう。

 桐生は十二の首を数えると、その丘を駆け降りた。


 伸介は、丘を目指して一途に走る裏傀儡の若者の無防備な背を枝の高みから見下ろしていた。その姿が視界から消えるまで、ずっと。手にしている剛弓で矢を射かければ十分に狙える距離ではあった。だが伸介はそうする気になれなかった。殺すなら殺せと叫ぶような気迫を滲ませる若者の後ろ姿が妙に伸介の心情を揺さぶり、殺意を打ち消してしまったらしい。先程は殺すつもりで猿飛の秘術〃屠網〃を仕掛けた。殺人を望まぬ伸介は実戦で〃屠網〃を使った事はなかったが、初めてでも術は正確を極めた。それ故にかわした若者の技量に驚愕したのである。外す筈のない距離からの手裏剣さえ、急所を逸れた。いや、逸らされた。それで万一のために準備した〃空蝉〃まで使う事になったのだ。

 癖の苦笑いが伸介の頬に浮かぶ。桐生と名乗るその若者の振舞いは忍びに相応しいものではない、と思って。丘での決着は既に決した頃合いであろう。今更駆けつけても手遅れだった。いかに技が切れようと、仲間への情のために無意味な危険に身を晒すなど乱波の資質には著しく欠ける。その愚かさを自嘲するように嗤った。

 次の機会に仕留めてやる。そう腹の中で嘯くと、伸介は木から降りた。

 そして、丘とは逆方向へと急ぐ。半時近く前、伸介が指笛の合図を聞いた方角へ。笛の信号は白面樹の別組からのもので、裏傀儡を発見、二人を仕留めた事を告げていた。最後に笛は、残りの一人を追跡中、と締めくくった。ただし、その後の連絡はない。確かめに走ろうと思ったところで、甲羽たちと遭遇した。彼等は組がひとつ潰された事を知り、裏傀儡の力を認めて七人で相手に当たる決意をしていたのだ。あの丘に罠を仕掛けて。

 伸介は彼等が反撃に出るところを静観する事にした。

 裏傀儡の奇襲が六人によるものであると最初に気づいたのは伸介だった。見張りの死角を突いて配置に着こうとしている裏傀儡の三人を遠目で見て、伸介はすぐに知らせようとしたが、見張りの視線は別の者を追っていた。銃声が轟いたのはその直後である。そして戦いが始まった。初めは六対四。ずくに六対七になる筈だった。数では劣るが、甲羽たちがいる。総合力に大差はない。つまり自分の参戦で、勝機を掴めると踏んだのである。その時、丘から逃げる見張りと追撃者を目にした。見張りの顔にあった恐怖の表情が不快だった。更に追手が裏傀儡のかなりの使い手と判断し、〃屠網〃を使う決心をしたのだ。

 だが結果は、誰の思惑通りにも行かなかった。

 伸介は足跡を消さずに北へ向かった。桐生に後を追わせるためだった。

 走りながらも、耳を研ぎ澄ましている。如何なる笛の音も聞こえてはこない。丘からの知らせがない以上、甲羽たちはもう殺られたものと見た方が良い。桐生を除いた五人も、恐らくもう死んでいるものと理解した。七対五では、甲羽たちが勝つ筈だったのだが。

 やがて、一里。そろそろ笛を吹いた地点に着く頃である。

 と、前方に四色の違う紐をそれぞれに巻つけた木々が現れた。個々の色の紐とその組み合わせによって、知らせを伝えるものだった。その意味を読み取ると紐を解いて、十間先の斜面に向かった。その下に裏傀儡の忍びらしき死体が二つ。弓矢で射られ、首筋を切られてとどめを刺されていた。矢は白面樹が使うものであった。

 そこから無数の足跡を辿りながら、伸介は森の西へ向かった。そのまま五町ほど進むと森の様相が変わってきた。中低木層から杉林へ。その奥へと入ってゆく。やがて枯れ葉の上に、蒔かれたような黒い血の跡を見つけた。既に乾いている。その先に四つの死体が転がっていた。ひとつは、組頭。確か名を石動と言った。伸介の知る限りでは、甲羽に継ぐ技の持ち主だった。脇腹の動脈を下から断ち切られており、恐らく即死であったろう。死体の斬り口からみて、敵の技量は並外れている。伸介は更に周囲を調べた。枯れ葉の中に隠された幾本かの刀。また木々の間には、細く丈夫な糸が放置してある。どれも一人で四人に挑むための裏傀儡の仕掛けであったのだろうと察した。

 伸介は身を屈め、地表を調べた。点々と血を滴らせながら蹣き歩く足跡がひとつ。そのの大きさと深さから相手が小柄な者である事を知った。しかも、相当の深手を受けて。

 伸介は警戒を怠らずにゆっくり跡を追った。進むにつれて、血の乾き具合が変わってゆく。石動の屍から三町ほどの辺りでは、血はまだ乾いてはいなかった。歩幅は徐々に狭まっている。殆どまっすぐ歩けない状態である事が手に取るように判った。

 更に三町先で、伸介は相手を見つけた。女である事が意外であった。しかも、まだ生きていた。上体を折り、泥酔したような滑稽な様子で、それでも先に進もうとしている。

 伸介の顔から表情が消えた。そして剣を抜き、女の背後から音もなく迫ってゆく。


 桐生は森を走っていた。一歩走る毎に五人の仲間を失った事が実感として心に染み込んでくる。怒りとも憎悪とも異なる激しい焦燥感にも苛まれつつ。

 残る敵は五人。猿飛の伸介とその配下の四人である。もっとも、厳密には四人は伸介の手下ではないらしい。技量において伸介とは差があり過ぎるのだ。やはり、ただ雇われただけの暗殺集団なのかも知れない、と桐生は確信し始めていた。

 残りの戦力は五対四。強敵は伸介だけと考えて良いだろう。

 お蝶たちのことも気がかりだった。もし彼等が伸介と遭遇すれば確実に殺される。桐生自身さえ、先の戦いでは運よく命を拾ったようなものと思っていた。伸介を倒すためにはお蝶たちと合流し、連携戦術を組む事が不可欠だった。

 お蝶たちは既に合流地点に到着している頃である。先にそちらに向かうべきかとも思ったが、まだ新しい伸介の足跡を追う方を選んだ。桐生に追わせるために、わざと残したものとは気づいている。だから小賢しい罠など仕掛けたりはしない。ただ殺すだけなら、先ほど背を向けていた時にも出来た筈だった。伸介は果たし合いを望んでいる、と考えた。桐生との戦いではなく、この森にいる裏傀儡との総力戦を求めているのだ。

 それでも追跡には十分に注意を払うことを怠りはしない。常に木陰と藪に身を隠しながら森の中を北へ向かっていた。幸い、ここからなら合流地点も近い。

 やがて前方の斜面の下で、虎太郎と善蔵の死体を見つけた。

 桐生の目の奥で暗黒の炎が燃え上がった。同時に、頭の中が焼けるような錯覚。逆に凍りつく衝撃と戦慄の中、桐生はお蝶の姿を捜し求めた。近くには見当たらない。二人の死体を調べて、半時以上前に殺されている事に気づいた。虎太郎たちを殺したのは伸介や丘の上の奴等ではないらしい。それなら、お蝶だけでも逃げ延びた可能性はある。

 桐生は地に這いつくばり、必死の形相で手懸かり捜した。

 そして、見つけた。落ち葉の下に、伸介よりも大きく重い何者かの足跡を。伸介は憑かれたような目でそれを辿った。やがてその先で足跡が急に増えていた。少なくとも四人以上。どれも歩幅が広い。そのうちのひとつは間違いなくお蝶のものだった。

 足跡で判る。お蝶は全力で走っていた。同じ歩調で。恐らく怪我をしてはいない。奇襲から逃れて、反撃に転じる場所を求めていたのであろうと想像がついた。だが、目の奥で再び黒い炎が揺れる。不吉な囁き。突然訪れる仲間たちの死。屍は次々に増えてゆく。

 桐生は懸命に急いだ。やがてその先に転がる四つの死体。張られたままの傀儡糸。切り口からお蝶がその四人を殺した事が判る。同時に、お蝶がここで深い傷を受けた事も。

 更に足跡は森の奥へ続いていた。点々と続く乾いた血と、その上からつけられた新しい足跡。半時近い時を隔ててつけられた二つの種類の足跡。二人の人物のもの。逃げる者と追う者。桐生は愕然としてその事実を認めた。伸介がお蝶を追っているのだ。

 動揺は一瞬にして消滅した。意識の奥底で仕切られていた幾つかの感情の境界が、絶望の予感と共に微塵に砕け散る。桐生の魂の中で何かが生まれた。歓喜とも狂気とも区別のつかぬ激しい衝動を抑え切れず、剣を引き抜いた桐生の口から獣の咆哮が迸る。

(殺してやる、伸介!)

 それが桐生の唯一の意志だった。伸介を殺してお蝶を救う事。それだけが、この瞬間を生きる桐生の目的であった。裏傀儡であることも、飛龍六道の事も、桐生の念頭から完全に消えていた。その一方で、暗く沈んだお蝶の顔が桐生の脳裏に浮かんだ。

 お蝶、と獣の意志の裏側で桐生の心が静かに呟く。死なせはしないよ。そんな寂しげな顔のままでは、絶対に。月山の麓の百姓屋に預けていた〃語り〃たちにも必ずまた会わしてあげる。一緒に帰ろう。死んだ仲間たちの思い出と一緒に、二人で甲斐へ。

 桐生は猛烈な勢いで森を駆け抜けてゆく。夥しい血痕と乱れる足跡を蹴散らして。木陰に振り返る度に現れる、死んでいるお蝶の幻影を振り払いながら。やがて突然、足跡が消えた。血痕もそこで途切れていた。いくら捜しても何も見当たらない。無論、屍も。

「お蝶!…出てこい、伸介!」

 恐慌状態に陥った桐生が周囲に叫ぶ。返事はない。如何なる人の気配も、同様に。

 桐生はお蝶の名を呼びながら森の中を駆けていった。やがて日が落ち、夜が朝に変わるまで捜し続けてもお蝶は見つからなかった。三日後に巳陰が戻るまで、桐生は狂人の執念で片時も休まず森中を歩き回っていた。お蝶の行方が知れたのはその直後だった。



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