秀綱陰の剣・第八章

著 : 中村 一朗

空蝉


 西上州上泉。

 朝靄に煙る桃木川に沿って、鼻歌とともに塚原卜伝がひとり歩いてゆく。

 この八日間の滞在ですっかり日課になってしまった事である。朝目が覚めるとすぐ、隠居のように散策する。道行きはその日の足任せである。昨日は気が向いたので厩橋まで行って帰って来た。その前日は赤城山の麓にある神社へ。その前々日は大胡領内に足を向けた。腰に剣を携えはいない。杖代わりの竹刀を手にしているだけである。一時半ほどあちこちと物見遊山で歩き回って下柴砦の屋敷に戻り、飯を食らっては昼過ぎまで畳の上で大の字になって寝る。起きては近所の子等の遊び相手になってやった。教えることこそしなかったが文五郎たちの稽古をじっくり見物し、屋敷の者たちと与太話に談笑して日々を過ごした。いつの間にか卜伝は、屋敷の家臣や奉公人はおろか村人ともすっかり打ち解けていた。今では邪険に見る者とていない。秀綱と試合うために来たのではないとお町に宣言した話が既に皆の間に知れ渡っている。無論、それだけの理由ではなかった。初めは天下に名高いこの剣豪を影から恐る恐る見ていた村人たちも、卜伝が子等と無邪気に遊ぶ姿に胸襟を開いていった。卜伝襲撃を画策した者たちさえ今では通り過ぎざまには困ったような顔で挨拶を寄越す。敵意から好意へ。特に何かをした訳でもないのに、たった数日の間に卜伝を見る者たちの色目が変わった。そうした周囲の変わり様に秀綱の弟子のひとりがある時「成る程これこそが無手勝流の極意でありましょうか」と、卜伝に問いかけさえした。「そうじゃよ」と、卜伝は神妙な顔でけろりと返した。

 右手に蟇肌竹刀、左手には柿の枯れ枝。常の赤い羽織姿が今日の出立ちである。枯れ枝は先程、ふたつの柿の実を求めて狙ったついでに竹刀で払い落としたものだった。実のひとつは卜伝の腹の中にある。そしてもうひとつは懐中に。

 ふいに卜伝は立ち止まり、川辺に目を向けた。手の枯れ枝を三間ほど先の藪に放り込んでニコリと笑った。辺りに人影は見当たらない。暫く待って口を開く。

「こりゃ、空蝉の乱波。素直に出てこい。わしの命を狙うておる訳でもあるまいが」

 声に応えて、藪の中から長身の男が苦い表情ですっくと身を起こした。右手には卜伝の投げた柿の枝を掴んでいる。それを水面に放り捨てながら。

「空蝉などと。名は西行寺聴海でございますと、以前に申し上げた筈ですぜ」

「ここのところ色々な者に会うで、いちいち名など覚えられぬわ。わしも年じゃでよ」

 聴海は一挙動で卜伝の前に身を翻した。本能的に二間の距離を置いた。

「いつまでも長々とこの地におられるご様子で」

「そう嫌うな。周りが気を遣うてくれるで、居心地が良いのだ」

 聴海の頬に苦い笑みが浮く。吐息を吐くように眼光が引いた。

「少しばかり手間取りましたが、塚原さまに頼まれた手紙はこの聴海めが確かに山本勘助殿のお役宅に届けましてございます」

「有り難うよ。届けてくれれば、多少遅れようがかまわぬわ」

「役目柄、回り道をしておりましたので。そちらも無事に務めを果たせてございます」

「お主、どうせ中身を読んだのであろうが」にこりと微笑みかけながら。

「手前も浅ましき乱波業を職能としておりますれば、止むに止まれず隅々まで拝見を。お陰様で判ったこともございました。それにしても塚原さまは達筆でございますな」

「世辞はよい。手紙を覗く勝手は初めからの約束じゃ。で、勘助から褒美は貰ったのか」

「いえ。雲水に身を変えておりましたので、山本様にと文を門番に託しまして」

「それはいかん。いかんぞ」

 卜伝は懐から柿をだすと、指先だけで二つに割った。その片方を聴海に差し出して。

「せめてもの心付けと思って受け取ってくれ。ほんの気持ちだ」

 寸刻、聴海はあっけにとられた顔になったが、すぐに口元を綻ばせて。

「頂戴いたします」と、両掌を差し出して柿を受け取った。

 二人は並んで土手に腰を下ろし、柿を頬張った。

「美味いじゃろう、空蝉。今日が食い頃と思い、取ってみたら案の定だった」

「西行寺聴海でございますよ。…確かに美味しゅうございますな」

「毎年どの柿の木にも一番美味い実を生らす枝がある。いつも同じ枝とは限らぬのだが、わしはそれを見分ける名人でよ。烏どもとも張り合える程じゃ」

 束の間、ふたりは無言でぼんやりと辺りを眺めた。この西上州では、歩き出せば冬の足は疾い。雪こそ多くないものの空っ風は身を切るように冷たくなる。水辺の藪もこの数日ですっかり色あせていた。その枯れ叢が日差しを受けて黄金色に燃える。同じ朝日が川面にキラキラと輝かす。波紋に揺れながら枯れ葉が流れ来ては去っていった。その片隅の狭間を水鳥たちがゆったりと遊ぶ。水面に嘴をつけては首を振るその姿に卜伝が微笑んだ。

「美味そうだ、などとお考えになったのではございませんか」

 と、卜伝に顔を向けて聴海。卜伝は笑みを消さず、鳥を見ながら。

「馬鹿を申せ。風流とか優雅を知らぬ野暮な男じゃ。もっとも、言われてみれば、確かにこの時節の鳥は美味だな」と、ゴクリと喉を鳴らす。

「では夕刻までに、近くの山でよく肥えた鳥など取って、誰かに上泉さまの屋敷に届けさせましょう。美味い柿を馳走になったせめてものお返しでございますよ」

「その柿はわしの方の謝礼のつもりだと申した筈だぞ」

「いえいえ。中に記されていた事を読みましたれば、件については五分と五分でござる。柿と鳥は任を離れての事。この聴海めの、ほんの気持ちで」

「近頃は律儀な乱波が増えたものじゃ。では、楽しみにしておる」

「お任せ下され。秀綱さまが戻るまでは、急ぎの用向きもございません」

 卜伝はゆらりと聴海に頭を巡らせた。静かな目線をぼんやりと遊ばせた。

「手下の者たちは気の毒であったな、聴海殿」

 ひと呼吸ほどの間を置いて、聴海が頷いた。

「やはりお気づきでございましたな。十四日前、余地峠で無界峰琉元に殺された三人はお察しの通り手前の下忍でした。幼き頃よりよく仕えてくれました。彼の地で塚原さまに挨拶をした錦山も姓こそ違え、手前の遠戚にあたりましてございます」

「そう聞けば確か甲賀忍びだと、余地の峠道で会うた錦山某とやらが言っておったな。長野殿に雇われておるなら、なぜ上泉殿の領庄を見張る」

「万一の場合に備えまして。秀綱さまの御命を奪う事などは誰にも出来ずとも屋敷や町に火でもかけられてはと、長野さまが案じられましてございます。忍びの非道な術に抗するなら、手前共でも役に立ちます。長野さまの、秀綱さまへの御心遣いにござる」

「武家の心遣いや気配りなど、所詮は不信の表れよなあ」

「またそのような穿ったことを…。手前は聞いたままを口にしただけでございますよ」

 卜伝の推察通り、実のところはやはり少し違っていた。上泉防衛のための忍び布陣であることに偽りはなかったが、秀綱のためというよりも西上州同盟のためのものである。隠密理に上泉を見守りながら出入りするあらゆる人や物、あらゆる動向を見張る事。それが長野業政の密命であった。この頃、業政は老いと己が身の病の兆しを感じていた。業政が健在であるうちは西上州の結束は盤石の碑である。だが業政が倒れれば同盟は乱れる。その場合業政は秀綱が一枚岩を崩壊させる最初の一穴になる可能性に怯えた。武家の理想は忠義で結ばれた主従関係である。だが業政と秀綱の間にあるものは友情であり、忠誠心の類とは程遠かった。友情は業政一代で完結する。浮世離れした上泉秀綱に忠義を誉れとする武家の常識は通じない。そのくせ一方では秀綱は広く人望が有る。敵方に寝返ったり謀反を起こすとは考えなかったが、遁世を求めるなら十分に有り得た。その場合、一武将の退任ではすまない。西上州は最強の武力の象徴を失うことになる。此度の聴海の派遣も日頃の箕輪城内に燻る重臣たちのそんな疑心が業政の不安を煽って起きたことであった。

「まあよいわい。で、琉元が初めて秀綱殿を狙うた時には、聴海殿はこの地にはおらなんだのだな。代わりに下忍たちがいた。話をすぐに聴海殿に伝えた訳か」

「はい。さすがによくお判りで。ですが業政さまの手前への指示は、先日の秀綱さまの箕輪城へのご来訪の後の事でございます」

「琉元に斬られた三人はその時上泉にいた下忍たちなのか」

 聴海が硬い顔で頷く。三人の骸がその脳裏に浮かんだ。

「厩橋からここに来た手前と代わって、余地峠を見張らせておりました。あの三人が琉元共の顔を見覚えていましたゆえ。上泉で彼らが動いていた時から目をつけていたそうにございます。秀綱さまへの襲撃も予想の内でございました」

「それを知らせず他人の命を運任せにするなど、冷たいものじゃな」

「ただ見張るだけで、いかなる場合も手出しはならぬと業政さまよりきつく命じられておりましたゆえ。それ程までに業政さまは秀綱さまの力量を信じておられます」

「ふん。どうだか。わしは性根が曲がっておるよって、そうは思わぬよ」

 卜伝は顎で話の先を促した。秀綱襲撃の直後のことについてである。

「上泉から逃げる琉元たちを三人は気づかれずに暫くは追いましたが、余地峠の中腹で見失いました。気づかれた気配はなかったそうですが、恐らくは三方に分かれたのでございましょう。それで彼ら三人を、その辺りを中心に配置しておきました」

「琉元たちは甲賀の忍びが余地峠の佐久側で張っておると読んだのじゃろう。それで散り散りに山に逃げた訳か。甲斐で落ち合うはずが、琉元だけが戻らなかった」

 卜伝はその辺りの裏傀儡側の事情を簡単に述べた。聴海が覗き見た手紙には書かれていなかった事がらである。無表情に話を聞いた後に。

「して、琉元はまだ生きておりましょうか」と、問うた。

 聴海の目が川面に向いてスッと細められた。心の奥にうねる琉元への憎悪の闇を見せまいとするように。卜伝はその固い横顔をちらりと盗み見て言った。

「さあ。並の兵法者であれば死んでおろうな。命を落とさずとも、腕は以前のようには動くまい。肩の筋を斬った」

 聴海の喉が小さく動いた。手元の小石をひとつ拾って川に放った。

「では、忍びとしても兵法者としても、死したも同然」

 ぽつりと呟いた。

「手紙の礼ついでじゃ。望むなら、此度の騒動ついてわしが知っておる事を教えるが」

 意外な申し出に一瞬聴海は返答に詰まったが、やがて小さく首を振った。

「手前は才量を弁えておりますれば、己には過ぎた世の事がらを解こうとは望みませぬ。長野さまに言われた事のみを全う出来れはそれでようございます」

「良い心がけだ」と卜伝が生真面目な顔で頷いた。

「では、夕刻までに屋敷に鳥を届けさせますので」

 滑らかな動作で腰を上げながら聴海が言う。遠方に村人の影が現れた。

「出来れば余分に頼む。居座っておる都合もあるで、たまには逆に屋敷の者たちに馳走を振舞いたい。お主とは別に、わしも獣でも狩りに山に入るかなあ」

「承知しました。ですが、塚原さまは今日は屋敷におられた方が宜しいかと。昼頃には塚原さまを訪ねて客が来ることでございましょうから。手紙の件もさる事ながら、実はこのことをお伝えするためにここでお待ち申し上げておりました次第」

「ほう。わしに客か。誰が来るか知っておるなら教えろよ」

 卜伝の問いに、今度は聴海が悪戯っぽくにこりと微笑んだ。

「いずれすぐに判りましょうから、お楽しみになさいませ。では」

 軽く頭を下げると、聴海は土手から離れて村手方に姿を消した。卜伝は水面の煌めきを見つめたまま振り返らず、遠ざかる気配を楽しげに見送った。



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