秀綱陰の剣・第八章

著 : 中村 一朗

日向


 九州・日向の山中。昼下がり。

 深秋である。蒼空を純白の雲が流れゆく。涼やかな風が遍く色づいた木々の間を過ぎ去っていった。時折、小枝から力尽きた葉をかすめ取る。中腹辺りにある古寺へ長々と続く森に囲まれた粗末な石段の上を、カラカラと枯れ葉の群れが舞った。その石段を上がった先の山林に古い小寺がひとつ。興庵寺という。丘状に切り開かれた野原の中央にひっそりと建っている。築後四百年は優に過ぎていた。もっとも主のいない時期も長かった。今はただひとり、住職がいる。囲う塀はない。雑木林と山門があるだけであった。村外れの寺と呼ぶには躊躇われた。庄屋の屋敷のある村の中央からは十町以上を隔てる。さらに畑の外隅から三町の辺りから始まる急な石段は、二百を数えてもまだ足りない。いつの頃からか土地の者たちの間では〃平家のお山寺〃で通るようになっていた。その名の由来は、寺の裏に立つ古い墓石群による。さらに山の奥には落ち武者の部落跡がひとつあるという。十年前、そこで三十六人が死んだ。三十六の名のない新しい墓もここにある。

 山門の石畳から、住職が箒を持つ手を休めて晩秋の山々に目を細めている。皺の目立ち始めた痩身を包む着古した法衣が石段に沿って吹き上げてくる風に揺れた。

「あの、もし。御坊殿」

 背後から突然声をかけられ、住職は驚いて振り向いた。五六間先の山門と本堂の中ほどに旅姿の男が立っていた。小柄だが、がっちりした体躯である。背負っている葛が大きく見えた。不信顔の住職と目が合うと、穏やかな笑みを浮かべてぺこんと頭を下げた。つられて住職も柔和な表情になって小さく会釈を返して。

「どなたかな」と静かに問う。

 男は住職の知らぬ間に寺の敷地内に入っていたことになる。顔にこそ出さぬが愉快ではなかった。最近では何食わぬ顔でやって来ては備具や供物を持ち去る野盗のような輩が、都や宿場町近くの寺社仏閣などでは少なくないと聞いている。もっとも盗まれて困るような類のものなどこの寺には何一つないのだが、とすぐに思い直した。

「これはどうも」と、男は愛想よく手を振りながら

「あっしは東国は江戸から流れて来ました絵師でして。号を〃北陽〃と称しております」と、また笑いかけた。

「ほう、北陽殿と申されるか。…絵をお描きになると。それで、ここに」

「はい。半時程前からここに。今日はどなたもいないと庄屋の六郎太殿に聞きまして。勝手に入り込んでおりました。卒爾ながら、ご住職の紡念殿とお見受けしますが」

 六郎太の声掛かりと聞いて、住職が安堵の顔で頷いた。

「そんな名の生臭坊主よ。もう十年近くもこの寺に住み着いておる。急に法要が変わったものでな。六郎太さんは知らせてなかったか。そうかそうか。つい今し方まで西の畑で芋掘りをしておって、それで絵師殿が山門をくぐったこと知らなんだらしいわい」

 住職に案内されて、北陽は十六畳程の小さな本堂に入った。寺の外見には、積年風雨に晒されてきた証がそこかしこにある。古びた佇いではあるが、荒れてはいない。中庭や特に屋内は隅々にまで手入れがよく行き届いていた。

「夕刻には村里の女たちが来てくれてな。何かと世話を焼いてくれる。わしのような爺いだと安心しておれるそうじゃ。そろそろ齢も五十半ばになるでなあ」

 住職に促されて北陽は腰を下ろしながら葛を傍らに置いた。住職は木魚の横に立てかけるようにして置いてあった大瓢箪と椀をふたつ手にして戻ってきた。茣蓙の上にどっかりと腰を落とす。大瓢箪を見ながら北陽は穏やかに口を開いた。

「何の。五十など、まだまだ。世には七十近くなっても子を生した豪の者もおりますぞ」

「それはまた、広い天下には御既得な御仁もいるものだ。子は国の宝じゃ。きっと、さぞ鬼のように強い御子が生まれたことであろうなあ」

 住職は大瓢箪の蓋を抜いて中身を二つの椀に注ぎながら笑った。一方を差し出す。

「ほお。地酒でございますか」

 その濁り酒をひと口飲み、北陽は目を見張った。見かけによらず、美味かった。また喉越しの良さもさる事ながら、すぐに胃の腑が熱くなるその強さに驚いた。

「般若湯じゃよ。これでも一応は坊主だから方便がいるのさ」

 瞬く間に二人は旧知の仲のように打ち解けて当たり障りのない世間話に花を咲かせた。互いに三杯ずつ飲み干した頃には二人ともほろ酔い気分になっていた。そのうちに庭先が騒がしくなり、村の女たち三人が住職のために夕げの支度にやって来た。滅多にない来客に気づいて、口と足を止める。住職が一人分増やせるかと尋ねると、女たちは気軽な明るさで頷いた。半時ほどして女たちは村に帰っていった。

「いつも下拵えだけしておいてもらうのだ。そうすれば、日の沈んだ後の好きな刻限に食せるからなあ。女たちが帰る刻限も、そう遅くならずに済む」

「なるほど。でも、この石段の下のすぐ先が村でございましょう」

「近くとも夜道は物騒じゃから女たちだけで帰すわけにも行かぬよ。村の庄屋宅からはやはり遠い。女たちは六郎太殿から駄賃をもらって帰るのさ。十日に一度は掃除にまで手を貸してくれてな。もう十年も世話になっておる。ありがたいことじゃ」

「信心深い村の衆でございますな。いや、失礼を。これも御坊殿のお人柄でしょうが」

「まあ、古い約束もござってな。だが、村の衆への感謝は変わらぬわい」

 やがて日も陰り出し、橙色の陽が山の稜線に消えつつあった。住職は蝋燭に火を灯しながら厨に消えた。暫くすると、ふたつの膳を手に戻ってきた。それぞれの膳には、湯気の立つ白米と一汁三菜が乗っていた。ふたりがそれらをきれいに平らげた頃には、白銀の月が青黒い宙天に輝く星々の中で一際鮮やかな姿を見せた。

 二人は大瓢箪と椀を持って、月の見える縁側に移った。椀の酒をあおりながら北陽はうっとりと新月に見蕩れている。やがてぽつりと呟いた。

「秋の月は風流でございますな。ひと筆描きたくなりました」

「わしなどに遠慮なさらず、ささ、思うままになされ」

 北陽は懐紙を取り出し、腰に吊っていた筆を手にした。小竹の壺の墨を筆につけると、鮮やかな手際で山並みと月を、酒の勢いも手伝って一気に仕上げた。やはり酒をあおり飲みながら、住職は無言で作業を見ていた。墨で黒く描かれた月と山。たなびく雲は掠れている。夜の空だけが透けるように白い。そしてその月にかかる松の枝。針葉。それに留まる梟らしき生き物の影がある。同じ風景だが、懐紙の上で反転した月光と闇…

「おお。さすがに絵師殿だ。素人目にも、静寂を求めるお心の有様が伝わるようだ」

 北陽は自分の絵を床において何気に見ている。筆の柄で頭を掻きながら首を傾げた。

「いや、どうも。…酔った手際では恥ずかしい限りで」

「ところで昼間はこの古寺の中を歩き回っておられたようだが、絵師殿は何かめぼしいものでも見つけられたかな」と、住職は覗き込むように首を傾げながら。

 はい、と北陽は筆を仕舞いながら頷いた。

「裏手にある古い墓を。見て歩いておりました。実はあっしは、平家絵巻を描いてみようと思っておりましてね。そのために材を求めてこの地に来たって次第でして」

 絵師は立ち上がり、本堂の葛を解いて蓋を開けると中から何枚かの半紙を取り出して戻ってきた。それを住職の眼前に突き出す。どれにも簡単な構図が墨で描かれている。

「ほう。これは、なかなか…」

 一応誉めようとしたが、先程の絵とは異なり善し悪しも判らず、住職は口を濁した。

「よしておくんなさい。まだ下絵にもなってやしませんや」

 住職は絵から顔を上げ、ふいにゲラゲラと笑った。

「いやあ、済まぬ。わしには絵などの風流はとんと不得手でなあ」

「いいんでございますよ。世辞よりはそう言って貰った方が気持ちが良いってもんで。ところで、里で耳にしたんですが、この近くに落人の隠れ部落があったとか」

 住職は頷きながら酒を注いだ。二升入りの大瓢箪はもうすぐ空になる。

「確かに、以前はこの山の北側に小さな部落があった。平家の落人部落だったと言う噂も聞いたことはあったさ。だが、とうの昔にうち捨てられたということだ」

「じゃあ、もう誰も住んではいないんでございますかい。それからずっと」

「うん。…十年前までは人がいたらしい。いや、おった。一度は捨てられた部落に、その四五年前にまた戻って来た者がいたというのだが。実は、そのあたりの詳しい事情はよく判らんのだ。わしがこの地に来る以前のことでな」

「平家の落人とやらの裔が戻って来たんですかね」

「さあ。もしそうでも、自分たちの祖先のことなど気にしてはおらなかったことだろう。何百年も前の血脈なぞ誰も気にすまい。わしなど、己の爺婆の名さえ知らぬ」

「ところが、俗物は気にするものでして。かく言うあっしだって、古い戦国絵巻を描くためにその部落跡に行こうって訳なんですから。この寺の墓にもね」

「何の道、もう誰も住んでおらぬ。皆、死んでしまったからな。老若男女合わせて三十六人が、一夜にして。恐らく、大して苦しみはしなかった事だろう」

「そいつは、また気の毒に。何かあったんですかい」

「ああ。こちらは、わしにも些か関わりはある話ではあるのだが」

「よかったら、あっしにも聞かせてやっておくんなさい。なあに、与太話でもいいんですよ。絵にするにゃあ、その方がかえって面白いかも知れませんしねえ」

「ところが、あまり面白い話ではないのだ。十年前のはやり病の事は御存知か」

「いんや、あんまり。噂を耳にした程度でございます。詳しいことはちょっと…」

 住職は小さく頷き、酒で充血した目を細めて話し始めた。

「丁度十年前に遡るが。当時のわしはまだ雲水でな。風まかせの旅空を気ままに彷徨い歩いては戦場のあちこちで念仏を唱えておった。頼まれれば相談にも乗ったが、大抵は托鉢で食っておったから、まあ早い話が乞食坊主をしていたわけだな。それでたまたま近くの宿場を訪れた時、この山中ではやり病のために大勢の者たちが一夜にして死んでしまったと噂に聞いたのだ。そりゃあもう大変な騒ぎだったよ。恐ろしい病だということで五日が過ぎていたが誰も近寄ろうとせぬ。山の中では鳥や獣までが死んでおるという。麓の村でも、幾人か倒れておった。高い熱が出て、労咳のような咳が止まらず、ものもろくに喉を通らぬのに血の便を垂らし続けたりと、そりゃあ大変や病だったよ。結局それらの村では死人こそ出なかったが、病騒ぎが納まった後も、皆暫く咳き込んでいたくらいだ。宿場にはそれらの村から逃げ出して来た者たちもおって、帰るに帰れず困り果てておった」

「それはまた、大変なはやり病があったものでございましたことで」

「うむ。奇妙だろう。山奥から人里に流れてきた病だ。それでも、里の近くでは死人は少なかった。いや、出なかったのだ。わしも初めは半信半疑じゃった」

「それで、御坊がお出ましになった訳でございますな」

 感心する北陽を制するように手を翳して、住職は苦い笑みを浮かべた。

「いやいや。実は、欲に駆られた。この寺をくれてやるからと言われてな」

「何と…。随分と気前のよいお話でございますね。しかも、賄い付きで…なんざあ」

 北陽の呂律が乱れ始めていた。だいぶ酔いが回っている様子にも住職は気にかけている素振りもない。住職もまた同じ程に酔っていた。

「おうさ。もっともここの住職は大分前に死んでおり、主のおらぬ荒れ寺だったが。それでも余程切羽詰まってのことだったのだろう。その病のあまりの猛威に、何かの祟りとでも思ったのかも知れぬ。山に行って死者たちを供養してやってくれと役人に頼まれた」

「それで、この山に赴かれた。理由はともかく、命がけでございますな」

 濁り酒を椀に注ぎながら住職はため息をついた。

「命がけなど、聞けば呆れる。あの頃は…わしは愚か者でな。戦場跡を巡ることを楽しんでおった。幾十もの戦場を越えてくるうちに、もう人の世に憂いすらあまり感じなくなっておったのだ。地獄は人の世にある。悪鬼の業に従い、人が求めて地獄を築く。だから地獄を巡って念仏を唱えておれば、己だけは俗世に染まらずにいられると信じておった。つまり念仏は己のために唱えた。人道を嫌い、天道を求める。そのように穿った見方をしておった。だから寺のこともあるが、正直に言えば面白そうだから引き受けた。命など軽いものだ。己のものとて何の惜し気もない。死ねばそれまで。ひとつ因業を払うことができる。だから、死者たちでなくわし自身を弔おうとして山に入った。な、狡いじゃろう」

 絵師は椀の濁り酒を見ながら何かを考え、暫くしてからそのまま頷いた。

「そのようで。確かに、よく居やがる糞坊主の考えそうなことでございましたな」

 住職は酔いが急に醒めたように目を見開いて、椀にとろんとした視線を置いている絵師を見た。が、すぐに柔和な顔で満足げに頷き返した。絵師の本音が嬉しかった。

「その通りじゃ、絵師殿。わしは浮き世の高みから人共を見下ろしておったのだ。天道など外道と同じよ。人は人らしゅう生きれば良い。共に笑い、共に泣き、共に怒り、こうして酒を飲む。あの頃にはもう女子には縁遠かったが、あれも良かった。そんな風に煩悩を喰らって生きておるのが人だ。だから、それで良い」

「ケッ!…だから人は人を殺すんでさあ。それが嫌なら煩悩を殺せば良い、と坊主どもは言うと思っておりましたがね。慈悲のため心を殺せ。挙げ句には己をも殺せ、とよ」

 北陽は板壁に寄りかかったまま上体が舟を漕ぎ始めていた。瞼は既に閉じている。

「人の在り様が十人十色なら、坊主とて十人十色だ。良い坊主と悪い坊主がおる。好みに合う坊主を捜せば良いさ。人の道を誤らぬ自信があれば、頼らずとも良い」

 紡念も強かに酔っていた。北陽の言葉などろくに聞かずに応じている。半睡の北陽とて同様である。互いに相手の語尾だけを頼りに話を合わせている。それが楽しかった。

「ひでえ間違いさえしなけりゃあそれで良いんですよ。それでも時々間違っちまうから困るのさ。そんときゃあ、何処ぞの悪い坊主が役立つかも知れませんねえ」

 自分で言いながら、訳がわからなくなって北陽はケタケタと笑った。

「面白いなあ。絵師などやめて坊主になってはどうじゃ。きっと良い説教が出来るぞ」

「…冗談じゃねえや。そんなことしたら、お天頭さんが迷惑するぜ…。当分は絵師でいいんだよ。結構気にいってますんでね。出来りゃあ、ずっと…さ」

 コトリと北陽は眠りに落ちた。すぐに軽い鼾をかき始める。

「これ、北陽殿。そんなところで寝たら風をひくぞ」

 住職は笑いながら立ち上がった。揺すっても目を覚ます気配はない。住職は千鳥足で奥の部屋からボロ着と厚手の筵を引きずって戻って来た。それを北陽にかけてやる。

「ほれ。これも御仏のご加護じゃ」

 住職は間延びした調子で笑いながら呟いた。

「…かたじけない」と北陽が呻く。

 紡念は童謡を鼻で歌いながら、よろよろと部屋の方に引き上げて行く。廊下の曲がり角まで来ると、ふいに振り向いた。

「ところで、絵師殿の本当の名はなんという。…号ではないぞ」

 絵師は答えずに高鼾で眠っていた。住職は無防備なその姿を楽しげに見ていたが、暫くするとゆらゆらと上体を揺すりながら部屋の中に消えた。

 外廊下の縁側で鼾をかいている北陽は、背をもたれかけていた壁際からゆくっりと床に崩れ落ちて頭を打った。一度鼾が止まったが、目を醒ます事はなかった。それでも、もぞもぞと動きながら背を丸め、ボロ着と筵を無意識に引き寄せる。その後。

「…名は、百舌鳥…百舌鳥の巳陰でござる」と、誰にも聞こえぬ声で呟いた。



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