秀綱陰の剣・第七章

著 : 中村 一朗

琉元


 二日後の夕刻、伸介は仙台の宿場外れにいた。

 街道から逸れた森にひっそりと建つ板張りの古びた小屋の前。子等でも飛び越せる小さな川の辺りであった。それでも清流のせせらぎは虫や鳥たちの声に和して耳に優しい。夕暮れに日の陰りだした中、蝋燭の灯りが小さな落とし窓の隙間から洩れている。入口はひとつだけ。莚で塞がれているだけである。伸介は朽ちかけた藁葺きの屋根を見上げながら周囲の様子を窺っている。他に人の気配はない。小屋の中にいる者を除いては。

 この十年、伸介は仙台に小さな店を構えて腰を落ち着けていた。表向きには、今市から流れてきた独り暮らしの小間物屋の主で通っている。無口で無愛想なため、近所付き合いは殆どない。それでも留守にしている間は、通いの老婆に店番を頼んでおいた。

 一時ほど前、平泉から仙台に戻ると店番の老婆は伸介に手紙を差し出した。五日前に旅の乞食から預かったという。手紙には、町外れの小屋で待つとだけ記されていた。忍び文字で書かれていたが、例え通常の文字であっても文盲の老婆には内容を知ることは出来なかった筈である。差出人は作助となっていた。古い知人ではあるが、伸介に取り不吉な名である。それでも伸介は家の敷居を跨がずにその足でここまでやって来た。

 小屋の前で、伸介は微かに漂う血膿の匂いに気づいた。ため息ひとつつくほどには躊躇いながら中に入った。暗がりに慣れる前に目を細め、囲炉裏の横に蹲る坊主頭の大男を注視した。誰であるかはすぐにわかった。手紙の差出人がそこにいた。

「作助だな」

 伸介がぽつりと問う。大男は僅かに身じろいだ。

「久しぶりだ、伸介。随分待ったような気がする」

 伸介は、力のない大男の声でようやく気づいた。

「どうした。怪我でもしたか」

「…どうやら、ドジを踏んじまったらしい」

 言葉に詰まって、伸介は大男の傍らに寄り添った。灯りを引き寄せて顔を照らす。窶れた目が悪戯っぽく微笑んだ。作助、即ち鬼界峰琉元である。

「やられたのか」

 意外であった。伸介は琉元のしぶとさと強かさを知り過ぎるほど熟知している。

「聞くまでもなかろう。十日以上前だ。傷はもう塞がっている」

 事もなげな言葉とは裏腹に、琉元は突然ガックリと意識を失った。脇に山積みにされた血染めの布がその傷の深さを物語る。二三日前までは、ここで熱に魘されていたであろうことは想像がついた。だが今の顔色には、回復の兆しが窺える。

 それから半時ほどして琉元は目を覚ました。伸介はその間に作っておいた粥を差し出した。米は小屋の中にあった。琉元は貪るように粥を食った。

「まるで餓鬼だ。その様じゃあ、飲まず食わずで寝込んでいたらしいな」

 伸介が笑う。琉元は目だけで答え、二杯目を胃に掻っ込んでようやく落ち着いた。ため息をつきながら

「生き返るようだ」と、ぽつりと呟いた。

 伸介がまた笑った。重傷者の心情などまるで頓着しない。

「ところで、何があった。一年ぶりに粥を食いに訪ねて来た訳でもあるまい。相手はどこの忍びだ。それとも、足抜けでも目論んで紅蜘蛛たちにやられたか」

「相手は一人。正面から挑んで斬られた。塚原卜伝高幹。七十近いじいさんだよ」

「…じゃあ、しょうがねえな。死なずに済んだだけでも幸いだ。で、何があったんだ」

 琉元は三杯目の粥を口に流し込みながら、再び伸介に目を向けた。

「伸介、もう一度大笑いさせてやる。この間殺しに行った相手が陰流の後継者だった」

 一瞬、伸介の顔から表情が消えた。直後、弾けるように爆笑する。琉元が不快そうに顔を顰めた。それでも伸介は笑い続けた。ふいに笑いを止め、

「じゃあ、何でおまえはまだ生きているんだ。尻尾を巻いて逃げて来たからか」と言ってまた笑う。その間、琉元は椀の粥を食い続けている。表情に変化はない。

「…そうだ。身代わりに手下が四人殺された」

 琉元の皮膚の下に、伸介への暗い怒りが畝った。それに気づいても伸介の笑みは消えない。かつての仲間にふりかかった皮肉な成り行きに驚くよりも寧ろ呆れながら。

「同情してほしいか。嫌だね。殺しに行って返り討ちに遭ってりゃあ世話はないぜ」

 琉元は粥を食い終ると椀を置いた。苦い顔で囲炉裏の火を見ている。

「…陰流継者の名は上泉秀綱殿。西上州大胡にある下柴砦の主だ」

 伸介の笑みがゆっくりと消えた。細くなった目を琉元と同じように炎に向けた。

「おまえ、まさか手下の敵を討つつもりではなかろうな」

「いや。もうその気はない。塚原卜伝に挑んで倒せればあるいはと思ったが…この様だ。移香斉様が言っておったろう。陰流の継者は卜伝殿と同じ類の剣を身につけた、と」

「おまえに討てる程度の者なら、陰流の継者ではない。それにしても、作助が敵討ちとはな。人殺し稼業に手を染めて、逆に浮き世の義理に目覚めたって訳か」

 皮肉な口調で伸介が揶う。頬にはまたニヤニヤ笑いが浮いていた。

 伸介は昔の琉元を知っている。猿飛の技を覚えるために、今よりもずっと多くの死を見なければならなかった幼い日々の修業時代からの付き合いがあった。今は亡き猿飛の長は天賦の才に恵まれた孤児らを集め、霊峰月山の山中で言語に絶する厳しい修業を課した。二人が幼年期を終えた頃には、四十を数えていた仲間の過半は鬼籍に入るか不具の身になって山を追われた。その三年後には、残った子等の数はさらに半分になった。忍び技である猿飛の修業に耐えたこの九人が愛洲小七郎のもとで猿飛陰流の手ほどきを受けることとなった。そして二年後に残っていた者は伸介たち六人だけであった。

「師匠は…」と琉元。

「小七郎さまは人を斬る技しか教えてはくれなんだ。以前は夢に魘されて飛び起きた事もあったが、この十日の間はあの頃の事を懐かしんでさえおった。確かに、おれはいつの間にか変わっていたらしい。成程、お主の言うとおりかも知れぬ」

「素直だな、作助。人らしい言葉だ。だが、おまえのような鬼には似合わぬ。優しい獣は人に喰われるだけだ。それとも仏にでも喰われたくなったか」

「自分でも解らぬ。手下の敵を討ちたかったのか、己の腕を試したかったのか…。まあ、よいわ。おれの勝手で済んだ事よ。何の道お主に言わねばならぬ事とは関わりない」

 琉元は秀綱襲撃の下準備から当日までのことを可能な限り詳細に述べた。そして四人が斬られ、その技が猿飛と陰流に由来するものであろうことを。それからその後に上泉と甲府で起きた事を自分の知る範囲で一通り語った。草薙の壊滅から陰流印可状のこと、さらに上泉に長逗留している塚原卜伝についても。

「ひとつ聞くが、作助」じっと考え込むように伸介が手を翳した。

「では、おまえは何故に裏傀儡から身を隠したのだ」

 伸介と琉元は、奥州の山中を根城にする忍び衆〃白面樹〃を情報収集に使っている。連絡は密に取らずとも、互いの事情については常にある程度は掴んでいた。琉元にとり、此度はこの繋ぎの網が大いに役立った。自らは西上州内に隠れたまま、この山岳乱波たちを奔走させて事の成り行きを知ることが出来たのである。

 裏傀儡には琉元が猿飛の技を習得していた事を知るものはいない。だが琉元は黒夜叉の左門が草薙に通じていることを以前から知っていた。さらに草薙も、愛洲最後の兵として技を研いていた生粋の猿飛が残っていることを知らない筈であった。それなら琉元は裏傀儡を隠れ簑にして元締たちの近くにいたままの方が今後の推移を探るにも都合が良かったのではないか、と伸介は考えた。陰流の継者出現の噂が伝われば、必ず草薙が動く。同時に、琉元が画策しようとしたであろう幾つかの可能性についても想像しながら。

「理由は二つある。ひとつは、上泉秀綱が陰流の継者である事を確認するためだ。確証が欲しかった。何せ、十年も捜していたのだからな。おれが消えれば、下忍を殺された元締は陰流の背景を探り始める。秀綱の身元を確かめるには面を知られたおれよりも聞き耳の利く者たちの方が巧くやると思った。加えて、おれも腹を探られないで済む」

 伸介たちは陰流の継者が誰であるのか知らなかった。彼らだけでなく猿飛陰流を名乗った愛洲小七郎惟修さえ、父移香斉に知らされてはいなかった。陰流開祖愛洲移香斉は人知れず上泉秀綱に技を伝授し、一子小七郎には一族の名のみを残した。言い換えれば、小七郎は移香斉に己が剣才を見限られたものと信じた。その事が必死の兵法を志す小七郎の精神を歪め、移香斉の死後、愛洲一族の勃興を目論ませる事になろうとは思い至らなかったのである。まだ見ぬ陰流継者への憎悪が、忍び技を応用したもうひとつの殺人剣猿飛陰流を確立させたのでは。そう思い返しながら伸介は、自分たちに容赦なく木剣の乱打を浴びせた若き日の小七郎惟修の悪鬼の形相を脳裏に浮かべた。今さら恨む気持ちはない。だがそれでも、腹の中の凶暴な毒蛇が古い記憶の奥に住む獲物を求めて鎌首を上げていた。

「で、もうひとつの理由は」と、表情のない声で問う。

「草薙と裏傀儡を消すためだ。互いに咬ませるつもりでいた。元締が陰流の事を調べ始めたと知らせれば、陣内は裏傀儡を潰そうとする。まともにやり合えば草薙が返り討ちに遭う事はわかっていたから、奇襲を掛けさせるように仕向けるつもりだった。もっとも、おれが知らせるより早く黒夜叉が繋ぎをつけたらしい。上泉の地から伊賀についた時には、陣内が既に動いていた。黒夜叉が元締を裏切るとは思わなかったので意外だったがな」

 月山を去った直後、愛洲一族は草薙を初めとするそれまで関わりのあった者たちとの連絡の一切を完全に絶っていた。天下を求めて事を起こす時が来れば、愛洲の側から繋ぎを入れると最後に伝えて。しかし十年前、多くの死と共に全ての企ては水泡に帰した。そして愛洲猿飛の生き残りである二人は、最後の始末をつけるために十年の時を過ごしてきたのである。ひとりは暗殺者として。ひとりは町人として。それぞれの身上を隠れ簑に。

「お師匠、愛洲小七郎惟修さまの遺志に従った、とでも言うか」

「…そうだ。観座たちとともに聞いた遺言の通りにしようとしたまでだ」

 観座たちとは、最後に残った六人の仲間の事であった。だが彼らももうこの世にはいない。十年前平泉の山中で、その屍は切り刻まれて土に返った。赤目伝説の源になった犠牲者である。だが、外道の所業を行ったのは赤目ではない。伸介と作助であった。二人はまだ息のあった彼らにとどめを刺し、手足を切り落として目を抉り、くり抜いた眼球を地に並べて置いたのである。近在の村人たちを赤目の森に近づけさせないためである。以後十年、赤目に関わる血みどろの噂は呪いのように役に立った。

「滅びの道か。〃一族の秘事を知るすべてのものに、死を〃…だったな」

 伸介が吐き捨てる。皮肉な笑みがそれに続いた。

「そうだ。すべてを終わらせることが出来るお方を、長き年月をかけてやっと見つけたのだ。少なくともおれには、そのための陰流の継者であっていただかねばならぬ」

 そう告げる琉元の顔に苦悶が浮かぶ。その様を、伸介は不思議そうに見ていた。殺された手下の弔い戦を諦めねばならぬ無念によるものなのか、あるいは今まで見てきた多くの死を悼んでいるのかは解らない。恐らく作助自身にも、と思いながら。

「やはりおまえは変わった」

 今までにも琉元は生死にかかわる大きな傷を受けた事はある。が、弱気や感傷的になった事など一度もない。そのような余裕はなかった。傷を負わせた者には死を持って償わせる事を信条としてきた。だが、今の琉元は違う。心の様を顔に出している。

 傷が琉元を変えたのではない。塚原卜伝の太刀が琉元の精神を覆う鉄の瘡蓋を断ち斬った事を伸介は悟った。もうひとつのその傷口は今も血を滴らせている。

「そうかも知れぬ。この傷を受けてから、妙な事ばかり考えるようになった」

 琉元、いや作助の大きな手が顔を拭った。その掌を見つめる横顔に、修羅の血海に消えた幼い日の作助の面影が宿っていた。最初に死んだ仲間の骸に取りすがって供に泣いたあの頃。飢えに耐えかねて厨に忍び込み、米と塩を盗み出して口に入れた時の笑顔。思い返せば、あれが作助が最後に見せた満面の笑みであったような気がする。

 伸介は腹の中で舌を打った。暗い横顔と澄んだ瞳は、暗殺者にとり死相に等しい。

「それならそれでよい。だが、おまえがどう思おうが、御二人のうちいずれかが死なねばならぬことに変わりはない。陰流継者の上泉秀綱殿か、〃赤目〃殿か」

 琉元が顔を上げる。冷めた表情が伸介の胸中を再び不快にした。が、それでも伸介は皮肉な笑みを絶やさなかった。琉元とは逆に、伸介は笑みを浮かべることで感情を殺してきた。いかなる内外圧も伸介の笑みを崩すことはなかった。師のどれほど酷い仕打ちに対しても皮肉な笑みで答えた。その頑なさ故、伸介は人を殺したことがない。殺人に禁忌はない。だからこそあえてそれを行う必要はなかった。死への恐れがあるから試そうとする。伸介にはそれがない。いかなる死についても無頓着であった。無論、恐らく己自身の死についても。だから小七郎に修業の総仕上げとして殺人を教唆された時も、伸介だけが拒否した。体罰は左手の生爪と右腕の生皮を剥がされる悽惨なものになったが、その際でも笑みで答えた。命令に従わずにいられた理由はもう一つあった。伸介の技の冴えである。膂力にこそ差はなかったが、剣の技量は六人の中でも飛び抜けていた。特に受け技においては開祖移香斉をも凌いでいたのかも知れない。十五を過ぎた頃には、高齢の陰流開祖を打ち破った師の太刀筋をもってしても伸介の軸心を捉える事は困難になっていた。

「半月以上、平泉にいたらしいな」と、琉元が問う。

 伸介の頬に苦い笑みがゆっくりと浮上する。この十年の内でもっとも必要な時に繋ぎの取れなかった事への非難が、その言葉の裏にあるように思えた。だが、伸介は寸分の後悔も感じてはいない。間の悪さに対する皮肉の念を覚えただけである。

「五年ぶりに。日照り続きで近在の村人たちが切羽詰まって山狩りをするらしいと噂を聞いたのでな。世話を焼きに出向いていった。一応、丸く治まったと思う」

「…で、〃赤目〃さまは御息災であらせられたか」

「ああ。以前にも増して、おいたわしい限りだった」

 琉元が小さく頷いた。ゆらりと唇が吊り上がり、眠たげに囲炉裏に目を向けた。

「お主に上泉秀綱殿への繋ぎを頼んでもよいか」

「仕方あるまいな。その体と顔では下柴砦に赴く訳にはゆくまい」

「いつも世話をかける」

「全くだ」

 琉元は目を閉じ、そのままコクリと眠りに落ちた。

 静かな寝息と邪気の消えた寝顔に伸介の顔から笑みが消えた。



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