秀綱陰の剣・第五章

著 : 中村 一朗

妖帝


 夕刻。甲府の外れ、一本松の丘。

 薄暗い森を三人が行く。先を行く桐生と後方のお蝶。二人の間には、枯れ木のように痩せた老人がとぼとぼと歩いている。猫背で手足が短い割りには頭と掌だけがやたらと大きい。かつては蛙の千吉と名乗った、水隠術に長けた土蜘蛛の冶平の手下である。お久が元締を引き継ぐより五年前に足を洗い、尾張の地に退いて百姓になった。その千吉をお蝶が捜し出してきたのだ。昔の裏傀儡の事情を知る唯一の生き残りである。

 千吉が突然足を止めた。二人の動きがそれに応じる。千吉は緊張した面持ちで左手の藪の様子を伺った。目は、その中に潜む人影を捉えている。

「物騒だぜ。これで三人だ。ここにゃあ、何人隠れてるんだよ」

 お蝶と桐生が目を合わせて、にやりと微笑んだ。

「あれは藁と布で出来た人形さ。あんたが見た三人は皆そうだ」

 桐生が冷たい声で答える。老人は一瞬目を見開き、不快そうに頬を歪めた。

「年をとると目が弱ってよ。そのうち、おめえ等だってわかるぜ」

「一昨日まではいつも十人が見張りについていた。今は仕事で甲府を離れてる」

「へえ、そうかよ。代わりに人形が案山子の役についたってえ訳だ」

「桐生。早く行こう。お久さまが待ってるから」

 終始無言だったお蝶が初めて言った。千吉が振り返り、お蝶の目を覗き込む。お蝶は視線をそらしたまま。二日前に千吉に会ってから、殆ど口を開くこともなかった。

 やがて三人は歩き始めた。一見不規則な道筋を選んで、低木に覆われた森の奥の館へと向かう。ふいに森が開け、崩れかけた築地壁を抜けて、三人は荒れた庭に入った。

「何か物騒だな。館の回りにも見張りはいねえのかよ」

「ここまでは誰もこない。乱波以外、森を抜けられる者なんかいないよ」

 先導する桐生が振り返らずに答える。

「へえ。そうかよ」と、老人は皮肉な口調で呟いた。

 館は人気のない廃屋にも見える。南面は雨戸で閉ざされ、落とし戸が全ての日差しの侵入を拒んでいた。裏へ回って、薄暗い館の中へ。三人が入ると、お蝶が扉を閉めた。

 千吉は初めに香の匂いを嗅いだ。数本の蝋燭の光と囲炉裏の小さな火。その淡い灯りにもすぐに目が馴れてくる。殺風景な広間の中央にひとりぽつんとお久が座っていた。千吉を見て、ゆらりと微笑む。童女のような短い髪が不釣り合いであった。白い羽織に黒装束の襟元と手首から覗く白い肌がゾッとするほど眩しかった。チロチロと燃える囲炉裏の赤い炎が浮き上がらせる妖艶な姿に、老人は年を忘れて生唾を飲んだ。

「遠いところを、ご苦労だったね」

 お久が言った。自分にというより、二人の若者を労っているように老人には聞こえた。お久に促されて、千吉は土間に鞋を脱ぎ捨てて上がる。お蝶がそれに続いた。桐生は框に腰かけたまま。館の中にはその四人だけ。他に人の気配はない。

「随分と悠長な構えだねえ、お久嬢。今、攻められたらひとたまりもないぞ」

 問に答えず、大徳利から椀に酒を注ぎながらお久は千吉に差し出した。千吉はそれに手をつけようとせず、ニタッと笑うとこれ見よがしに腰に釣った水筒の酒を仰いだ。

「先代が土蜘蛛っていう異名を取ったのは、何事にも慎重だったからだぜ。十重二十重に準備をして事にあたったから、あれだけの仕事を熟してきなさったのさ。それに比べるとおまえさん、随分と無茶をなさるそうだね。元締のくせによ」

 お久は差し出した椀を手元に戻して一口飲んだ。

「この隠れ家だってそうさ。何を仕掛けたか知らねえが、手薄だぜ。山ごと火でもかけられりゃあ、一巻の終わりだ。人形なんかめくらましにもならねえよ」

 桐生が座ったまま振り返り、冷笑を浮かべる。千吉には見えなかった。

「皆、出払っているのさ。明日には殆どが戻る」

 無表情な声で答えるお久に、千吉は生真面目な説教臭い口調で続けた。

「手薄にも程がある。お久嬢がもっと手配りを十分にしねえといけねえ」

「何事にも慎重な先代の、土蜘蛛の冶平のようにかい」

「そうよ。冶平さんのようにさ」

「その土蜘蛛の冶平のために、あたしは大勢の手下を失った」

「事情は、道すがらに小僧たちからあらまし聞いたぜ。運が悪かったんだよ。こんなことになるとは、誰も思わなかったのさ」

 老人は視線を引き、囲炉裏に顔を向けた。お久はその横顔を睨み据える。

「話してもらおうか、千吉。三十年前に何があった」

 暫くの間、千吉は沈黙を守った。囲炉裏の炭が二度弾けた。

「三十四年前だ。お久嬢は先代からどこまで聞いている」

「何も。ただこの件が、陰流と関わりがあることぐらいしか知らない」

「陰流なんかじゃねえよ。猿飛さ」

「猿飛…」

 千吉がゆっくり頷いた。濁った目がお久を見上げる。

「草薙の元の名だ。猿飛は一族の名じゃねえ。草薙はその一派よ。大昔は京の都を守るための影兵だったってえことだ。もう何百年も昔のことらしいがな。先代、つまりあんたの親父も猿飛の遠い血の流れを汲んでいたらしいぜ。だからあのことを知っていたのさ」

「あのこと…」

「お宝のことよ。あん時は、まだおれ等は裏傀儡とは名乗っちゃあいなかった。人数も十七、八人だ。京から鎌倉にかけて、好き勝手に荒らしていた盗賊よ。どいつもこいつも、腕っ節の立つ荒くれ者だったね。ただ、冶平だけが違ってた。奇妙な剣や体術を使ったからよ。頭も切れた。だから野郎の指示に皆が従った。お陰でいつもいい稼ぎになったね。それが一年ぐらいした頃だった。冶平が急に新しい仲間を集めて面白れえ仕事をすると言い出しやがったのさ。今までに見たこともねえお宝が拝める、って話でよ。使いようによっちゃあ、天下をひっくり返すのも夢じゃねえってことだった」

 お久が新しく差し出した酒の入った椀を、今度は無言で受け取った。ひと口含み、床に置いた。目は炎の中の三十四年前の記憶を辿っているまま。

「どうも大袈裟だね。そのお宝とやらひとつで、天下を覆すなんてさ」

「さあね」と千吉。ギロリとお久を睨み返しながら。

「だが、二百五十年前に天下を覆した後醍醐天皇が捜し求めていたお宝だそうだぜ。後醍醐の死後、そいつを捜し出した者たちがいた。正しくは、捜し出す手順を見つけた奴等って事だったがね。冶平はそれが出羽の愛洲一族だと聞き込んで来たのさ」

「何だって…」

「冶平はそれを狙った。おれ等は二十四人だった。あの時初めて裏傀儡を名乗ったのさ。おれ等は箱根で落ち合い、出羽へ向かった。だがその途中、月山の麓で…」

 千吉の目が、再び囲炉裏の中で燃える過去の闇へと戻る。

「夜、おれ等は寝入りばなを襲撃された。捨てられた百姓屋の中だったよ。後で知ったんだが、あれが草薙一族の奴等だったのさ。最初に見張りが殺され、あっという間に仲間の半分がやられちまった。残った者たちも森に逃げ込んだが、皆次々に…」

「あんたは生き残った」

「お久嬢の親父と、まだガキだった左門もだ。皆、散り散りになっちまった。おれは小川の藪下に隠れて奴等をやり過ごした。朝になって、おれはそのまま土地勘のある小田原に逃げた。冶平に再会したのは三年後だった。奴はまるで別人に変わってたよ」

「あたしの知っている土蜘蛛の冶平になっていたんだね」

「おうよ。元もと明るかあなかったが、あんな野郎じゃなかった。ただの盗賊の頭が、人殺しを生業にするようになっちまったなんてよ。いくら命じられたからって…。奴等が冶平を、薄気味悪い土蜘蛛に変えやがった。…何が裏傀儡だ」

「以前のことは、あたしは何も聞いていない。何が起きたの」

「三十三年前、冶平と左門は奴等に捕まった。生きて捕まったのは二人だけだったとよ。そこでどんな駆け引きをしたかは知らねえ。野郎が猿飛の技を使えたんで、助かったんだろうがよ。兎に角、冶平は土蜘蛛の異名を取る殺し屋に成り下がった。新しい手下も、十四五人はいやがったさ。恐らく、草薙に命じられてのことだったんだろうけどよ」

「そう言うあんたも、外道の端くれになったんだろう」

 桐生が呟く。千吉は椀の酒をゴクリと音を立てて飲みほした。

「ああ、そうさ。脅されて、裏傀儡の四番組頭になった。殺されたくはなかったから、しょうがねえじゃねえか。それにおれには、人を殺す仕事は回ってこなかったぜ。聞き耳を立てて、あちこちと嗅ぎ回るだけよ」

「犬みたいに、肥の中も這いずり回っていたって訳だ」

 桐生が背を向けたまま口を挟んだ。今度は千吉も顔を上げた。

「…ガキ。くだらねえことを言うその口を引き裂いてやろうか」

「爺い。出来もしねえことを口にするんじゃねえ」

「なに…」

 老人は懐に右手を差し入れて身を起こした。桐生は背を向けたまま。

「およし。千吉、あんたをここへ呼んだのはあたしだよ」

 お久が止めた。言葉の裏には、成り行きを面白がっているような響きがある。

「嘗めた口を叩きやがる生意気なガキの戯言を聞きたくて来た訳じゃねえ」

「金を受け取ったろう。それで宿場の飯盛り女と良い思いもしたって言うじゃないか」

 桐生の背を睨みつけながら、千吉は囲炉裏に唾を吐き捨てて腰を落とした。

「さあ、続きを聞こうか。草薙のことだよ。冶平は猿飛の血を引いていたと言ったね。猿飛と草薙の関わりについて、もう少し詳しく教えてもらおう」

 千吉は、お久が差し出した二杯目の酒をひと息で飲みほした。

「南北朝の争いでよ。二つに分かれて争ったのは武士や皇族どもだけじゃねえ。忍び技を操る猿飛たちもそうじゃった。草薙は後醍醐天皇の側についた。あ、いんや。そうじゃねえ。後醍醐についたから、草薙なんちゅう偉そうな氏名を貰いやがったにちげえねえ。後醍醐のために、奴等は何でもやったらしいぜ。策謀で女子どもまで暗殺してたそうだ。後醍醐が死んで、南朝が滅んでもこそこそ動き回ってやがった。そいつを裏傀儡が肩代わりをしたって訳よ。先代がくたばる十一年前までだ」

「つまり三十一年前から十四年前の十七年間、裏傀儡は草薙の小間使いだったって訳だ」

 呟きながら、お久の目がスッと細くなる。今の裏傀儡にその頃のことを知るものはいない。組頭もこの十年前後の中で代替わりしている。唯一は、黒夜叉の左門だけであった。

「草薙の下働きだけをやってたんじゃねえよ。大名や商人たちに頼まれて色々やったぜ。どれも汚ねえ仕事だった。蛆虫にも劣らあ。思い出すだけでもヘドが出る」

「今もそれ程変わりゃあしないよ。で、草薙からの仕事は十四年前に突然なくなったと言ったね。草薙が裏傀儡との縁を断ち切った、と」

「事情は知らねえ。奴等の方に何かが起きたんだろうよ。ある時突然元締が、草薙の仕事はもうなくなったって言ったのさ。もっとも、俺らにゃあ、何も変わりゃあしねえ」

 千吉は虚ろな表情で空の椀をお久に差し出した。

 お久は大徳利から酒を注ぎながら考えていた。草薙に関わる後醍醐天皇について。

 史上、後醍醐天皇ほど妖帝の名に相応しい者はいない。剛胆にしてしたたかな、不屈の怪物である。鎌倉幕府に幾度も反旗を翻してその度に敗走、投獄、流刑の憂き目に会いながら次第に勢力を伸ばしてゆき、元弘三年(一三三三年)にはついに目的を達成。鎌倉幕府を滅ぼした。さらにその後、足利一族による武家の支配を嫌って自らを正当な天皇と宣言し、吉野に南朝を築き上げてしまった。四年後に病死するまで、後醍醐天皇は京都の北朝足利幕府と敵対してその権勢を存分に揮うこととなる。彼の死後、南朝は幾つかの権力に利用されながら衰退してゆき、明徳三年(一三九二年)に事実上消滅した。

「なるほど。後醍醐の死後、草薙が吉野を捨てて伊賀に身を寄せたのが二百年ほど前ならば、一応はつじつまが合う。でも、草薙はなぜ野に下ったんだろうね」

 お久は、千吉に答を求めた訳ではなかった。

 三十四年前、冶平が盗もうとした後醍醐天皇の宝への扉は愛洲一族の手中にあった。それを守るために、裏傀儡を襲撃した乱波〃草薙〃。後醍醐に仕えていた草薙は、その宝を愛洲が持つことが正当であるとを認めていた事になる。それから導かれる結論はひとつ。つまり愛洲は、後醍醐の後継一族ではないのか、ということになる。愛洲一族の中に、後醍醐天皇の血を受け継ぐ者がいたのかも知れないと考える事は飛躍であろうか。

「さあな。南朝が潰れて、食えなくなったからだろうよ。それで、宝探しだ」

 そうであろう、とお久も思う。だが草薙は南朝にではなく後醍醐天皇に仕えた。その求める野望のために人を殺し、夥しい血を流してきたという。恐らく後醍醐天皇の怨念を今も受け継いでいるのであろう。その野望の飢え故に宝を求めたはずである。

「宝って、何だろう。金銀や財宝とは思えないけど」

 南朝を興した後、後醍醐天皇は何を求めたのか。答はひとつ。天下の統一である。二つの朝廷をひとつにすることだった。そのために資金を集めて兵を動かし、乱波を暗躍させてはあらゆる策略を目論んだ。宝もまたその目的のためのものである筈だ。

「知らねえ。だがよ、昔からずっと考えてたんだ。おれが思うに」

 その時ふいに、桐生が動いた。流れるような一連の素早い動作で、二つの蝋燭を同時に消した。お蝶もそれに習う。唖然とする千吉を尻目に、蝋燭は次々と消えて行く。最後のひとつを消した時、目配せた二人にお久が頷き返した事に気づく。

「おい。一体、何をしてるんだ」

 不安に駆られた千吉が掠れた声で問いかけた。

 暗い部屋。囲炉裏の炭が放つ微かな光。外から流れ来る静寂と、中に蹲る不吉な影。

「災難だったね、千吉。久々に裏傀儡の技を使わなきゃならなくなったらしいよ」

 お久が冷たく言い放った。いつの間にか三人それぞれ、部屋の隅へと移動していた。

 そして再び、沈黙。



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