幻跡行ひと夜

著 : 中村 一朗

C-3


 陽が落ちる頃、白猫は目を醒ました。

 先ほど、少女の夢のかけらがまたひとつ燃え尽きたのをまどろみの中で見ていた。

 首を巡らし、真っ暗な闇の中で七つのネズミの頭に目をやる。

 それらの死んだ脳には、体の動きを奪われたまま自分が白猫に喰われた恐怖がくっきりと纏わりついていた。

 白猫は意識の網をひろげ、住み処の近くにいた三匹の野良猫を捉えた。

 間もなく二匹の三毛猫と一匹のトラ猫が白猫の前に現れた。

 それぞれがネズミの頭をひとつずつ口にくわえると立ち去った。

 白猫は住み処に身を置いたまま、野良猫たちの目を通して町の有様を見ることができた。

 彼らは白猫の意志に操られて道を横切り、家々の裏を抜けて、島村の家にある大きな柿の木の前にたどり着いた。

 庭の南側にある鬼脈を囲むように三つのネズミの頭を暗がりに配置させる。

 終了後、白猫は彼らを解放した。

 野良猫たちは少しの間ぼんやりとしていたが、やがてその場を立ち去った。

 仕掛けの結界が出来上がると、白猫は目の前に残った四つの頭を喰った。

 同時に、中に残っていた新鮮な恐怖を心の舌でゆっくり味わう。

 そして最後の“獲物”を狩りたてるために、白猫は住み処を後にした。



A-3


 ひとみはいきなり森のはずれに出た。

 前方には遥か高みまで崖が聳えたち、背後の森の奥には靄がたちこめ始めている。

 唇を噛み締めて、頭上を見あげた。

 先に進むしかない。

 ひとみは崖を上り始めた。

 登ってみると、見た目ほど急な崖ではないことに気づいた。

 体を引き上げる度に手足をかける凹凸はすぐに見つかった。

 大丈夫、これなら上までいける、と自分に言い聞かせた。

 途中で一度、下を覗いた。

 一瞬、あまりの高さにめまいがした。

 夢の不条理のためか、知らぬ間に数十メートルも登っていた。

 先ほどまでひとみがいたあたりでは薄靄がたゆたうように蠢いていたが、まだ上昇してくる気配はない。

 すぐに崖を登ることはできないのだ。

 だが、決して安心できないこともわかっている。

 敵が変幻自在の怪物である限り、常に最悪の事態を予想しなければならない。

 怪物とひとみを隔てる距離だけが味方だ。

 ひとみは再び登り始めた。

 上にたどり着けば、きっと逃げ道がある。

 ゴンが身を捨てて教えてくれたのだからそうに違いないと信じた。

 ひとみを助けてくれるものはもうここにはいない。

 誰もいないのだから、自分を頼るしかなかった。

 この不思議な世界で、ひとみは大人のように考え、大人のように振る舞うことを急速に学びつつあった。

 そして大人の誰よりも冷静に状況を分析し、判断を下さなければならない。

 崖を登りながらも、ひとみは怠りなぐ自分の体をチェックしていた。

 手足に疲労はなく、呼吸も正常だった。

 持久源はひとみの心の有り様に左右される。

 気力さえ衰えなければ、力は無限に続くように感じられた。

 同時に神経を研ぎ澄まして絶えず周囲に気を配り、いかなる変異にも対応しようとした。

 音、光、匂いなどのすべてを全身で感じ取ろうとした。

 やがて、ひとみは崖の上にたどり着いた。

 更に続いている絶壁の前に、細い道が上に向かって延びていた。

 頭上では紺碧の空が夜にうつり変りつつある。

 遠方は灰色にかすむ領界で仕切られており、その内側は霧に覆われた広大な森だった。

 だが森の過半はすでに霧に食い潰されて、真っ黒い闇に変わり果てている。

 崖の下では濃い霧が渦を巻いていた。

 もうすぐ霧が崖を登ってくる。

 そう直感して、ひとみは道に沿って走りだした。

 道は荒れており、森の中ほど楽ではなかったが、走り続けなければならなかった。

 やがて小さな広場を通り過ぎて間もなく道が途切れた。

 登ることは不可能な黒い光沢を放つ高い絶壁が三方を囲んでいた。

 その下に洞窟があった。そこが出口だと確信し、ひとみは中に入った。

 足を止め、目を凝らす。

 暗がりに慣れてくるにつれ、衝撃の波紋がゆっくりと広がってきた。

「そんな…」と、うめくようにつぶやいた。

 そこは岩肌をくりぬいただけの小さな玄室だった。

 壁と天井の石には人の死に顔が幾百幾千も刻みつけられていた。

 苦悶するあらゆる顔が憎悪と絶望をたたえている。

 あると信じていた出口は、どこにもなかった。

 ここが全ての行き止まりだった。

 鉛色の疲労が、急速に全身に広がっていった。

 走っていた時でも感じなかった激しい動悸に抗し切れず、喘ぎながら床に膝をついた。

 そこにも悪魔の彫刻があった。

 同時に新しいことに気づいた。

 どれほど苦しくても、ここでは意識を失うことは出来ないのだということに。

 恐らく怪物に捕えられ、食い殺されるまでは…。

 いや、もしかしたら。と、ひとみはもっと恐ろしいことを思いついて総毛立った。

 もし怪物に喰われても死ぬことができなければ、永遠に喰われ続けるのではないか。

 自分の手足が、腹が、心臓が、怪物に喰われる様を繰り返し繰り返し見ることになるのではないか、と。

 目の前の泣き叫ぶ石の顔の群れを見ながら、さらに思った。

 そして、もしかしたら。

 すでにひとみはずっと前に怪物に喰い殺されており、幾度目かの同じ死を体験しようとしているのではないか、と。

 死ぬ度に記憶が消えて、喰い殺されるためにまた生き返って。

 そして、同じ悪夢を無限に繰り返して…何度も…何度も…

 ひとみは、喉の奥からつき上げてきた絶望の悲鳴に身を任せた。

 もう大人のように考えることも振る舞うことも出来なかった。

 ほぼ同じ頃、灰色の霧が崖を登り始めた。



B-4


「叔父さん、大丈夫?」

 その声に驚いて、原田は椅子から飛び起きた。

 慌てて振り返ると、看護婦の静子が心配そうな顔で立っていた。

 静子は原田の姪で、診療所の近くに住んでいた。

 原田と目が合うと静子は微笑んだ。

「机でうたた寝なんて、子どもじゃあるまいし」

「ああ…。そうだよな」

 原田は時計をチラッと見た。

 午後6時25分。

 10分以上寝ていたことになる。

 診察を終えてカルテを整理していて、ちょっと目をつぶっただけのつもりだった。

「わたしは帰るけど、島村ひとみちゃんのところに寄った方がいいかしら」

 静子がお茶を差し出した。

 原田はそれを受け取ってひと口すすった。

「いや、いい。後で行くことになっているから」

 静子を送り出してから、原田は洗面所で顔を洗った。

 顔を上げた時、老いた男が鏡の中から原田を見つめ返していた。

 なぜおまえはここにいるのだと問いかけている冷たい目。

 その回りには無数の小皺があり、下側には隈が浮いていた。

 不快な自分の視線に原田は顔を背けた。

 書斎に行き、ソファーに倒れ込んだ。

 骨の中から疲労がしみ出してくるのがわかった。

 それでも目をつぶると、三日前にちらりと見たひとみの笑顔が浮かんだ。

 先ほどの島村の家での判断を思い返してみた。

 決して、間違ってはいなかったはずだった。

 いや、むしろ正しい。

 感情的になっていた家族をなだめ、医療的見地からひとみの病状が危険なものではないことを説明したのだから。

 患者に危険がない以上、診療所に戻ったのも当然のことだった。だが…

 苦いものが、また口の中に広がるのを感じた。

 原田は医師としての立場で振舞った。

 話のわかるベテラン医師の仮面をつけて。

 だが、昭和の激動期を生きてきたものの予感は、別の答をずっとささやいていた。

 天井の蛍光灯をじっと見据えた。

 その灯りが作り出す影の中に、過去に出会った無数の死がうずくまっていた。

 病院の中で見た死だけではない。

 戦前、戦中、そして戦後になっても、死の匂いはいつも社会についてまわった。

 年をとれば取るほど、人の死に敏感になる。命の輝きが失われようとしている時がわかるようになる。

 その経験が、今も原田にささやき続けている。

 酒が欲しい。十年ぶりに原田は思った。



C-4


 夜陰の奥。

 白猫は島村の庭にある大きな柿の木の上にいた。

 屋根よりも高いところに身を置いて、

 目を閉じ、

 気配を断って、

 枯れかけたその大木に同化していた。

 そして、間もなくここに訪れる〃死〃を待っていた。

 右のわき腹がざわめくように脈動する。

 肌の下に今も残る疼き。

 白猫が異能力を持つようになったのも、この場所から始まった…。



C-5


 白猫はその半生を普通の野良猫として生きてきた。

 一番古い記憶は、雨の神社の境内だった。

 まだ小さかった白猫は賽銭箱の裏で雨にぬれて震えていた。

 いつも飢えていた。

 ごみ捨て場を漁り、虫やカエルを捕えて食べ、水たまりや池の水を飲んで過ごした。

 やがてネズミやスズメの取り方を自然に学んだが、昼夜を問わず辺りに気を配らなければならないことにかわりはなかった。

 ちょっとした油断で多くの仲間たちが殺され、喰われてしまった。

 当時は彼ら野良猫たちには天敵がいた。

 野犬や野良猫狩りの人間たちである。

 野良猫たちがネズミを取るように、彼らも野良猫たちを狙った。

 白猫は野犬や人間を恐れ、町中を逃げ回るように生きのびた。

 やがて時が過ぎ、町の様相が変わっていった。

 古いバラックが取り壊されて焼け跡が整備され、新しい建物が次々に増えていった。

 人間の数も増え、町は大きくなった。

 人間は猫よりも野犬を狩るようになり、一年もしないうちに町中から野犬の姿が消えた。

 その頃には白猫は仲間たちの中では一番大きく、俊敏になっていた。

 野犬がいなくなると、野良猫たちの天敵はいなくなった。

 特に野犬や人間たちと渡り合って生きのびてきた世代は、小さいながら野獣のように逞しく、したたかだった。

 どんな獲物や敵に対しても白猫は油断なく風下からそっと忍び寄り、スキをうかがい、タイミングを計って襲いかかり、殺して喰った。

 そのコツを学ぶと、ハトやカラスさえも白猫の捕食対象になった。

 獲物の減る冬には飼い犬の餌を奪い、時には人間の営む店からものをかすめ取った。

 人間も以前ほど怖い存在ではなくなっていた。

 いつの間にか多数の猫たちも白猫につき従うようになっていたが、群れて動くことは望まなかった。

 大抵は一匹で歩き回った。

 ただし、そのために喧嘩の回数は増えた。

 白猫も喧嘩は嫌いではなかったから、売られたら必ず買った。

 買ったけんかは必ず勝った。

 戦う時はいつも、白猫は独特の戦法を取った。

 間合いをはかりあって爪と牙をふるう一般的な猫の戦い方とは異なり、白猫は相手に体当たりを仕掛けた。

 接近戦では四肢と牙を使い、飛び込み際と離れ際に前足の爪を振るう。

 スピードとパワーだけでも他の猫たちを圧倒していたため、一度に複数の猫から攻撃されても軽々と一蹴できた。

 白猫は、時々町に流れてくる犬とさえ互角以上に渡り合った。

 自分よりも大きい犬を相手にする時は、目と鼻面と、毛の薄い柔らかな腹を狙った。

 先制攻撃をかけ、すれ違い様に前足を振るう。

 スピードとタイミングと狡知で、体重とパワーだけを頼る野生を忘れた犬たちを制圧できた。

 傷を負った犬が悲鳴を上げている隙に、塀や屋根に駆け上がってその場から立ち去った。

 樹の上に逃げて退路を失うようなことは決してしなかった。

 やがて白猫はその町にいる猫たちのボスになった。

 望まぬものではあったが、不敗の戦績が白猫をその地位につけた。

 好むと好まざるとにかかわらず、喧嘩の回数は激減した。

 しばらくは平穏な歳月が流れた。

 白猫はゆっくりと老いていった。鋭かった歯や爪が抜け始め、純白だった毛は艶を失っていった。

 だが3年前、全てが変わった。柿の木の下で起きた小さな事故がその始まりだった。



B-5


 午後7時22分。

 電話が鳴った。

 原田は鳴っている電話をじっと見ていた。

 三度目のコールで出る決意をし、四度目のコールが終わってから受話器を手にした。

 相手は看護婦の静子だった。

 今、島村家にいるといった。

 静子は、ひとみの身を案じて様子見に帰りがけに寄っていた。

 静子の声は緊張していた。

 つい先ほど、ひとみが二度目の激しい痙攣を起こした。

 発作はおさまったが、熱は三十九度をこえたまま下がらない。

 全身に発疹が認められ、脈も大きく乱れている。

 隣町から救急車を呼んだ方がいいのではないか、と言った。

 静子の判断は正しい、と原田は思った。

 医者の立場ならそうするべきだった。

 だが、原田は自分の直感に従い、静子の申し出を拒否した。

 救急病院に優秀な小児科医が当直している確率は低い。

 それに、救急病院まで夜の山道を救急車で飛ばしても三十分はかかる。

 もし脳に障害がある場合は致命傷になりかねない、と一応の理由をつけた。

 本当は、ひとみを家から動かすべきではないと感じたからだった。

 それでも静子は納得した。

 原田は、三十分以内にそちらに向かうと告げて電話を切った。

 受話器を離しても寒さで小刻みに震えている右手をじっと見た。

 10年前、妻の幸江を急性肺炎で失った直後にかかりかけたアルコール依存症の症状によく似ていた。

 頭ではとっくに忘れたつもりでも、体が覚えていた。

 あるいは、予兆。

 両手の震えが切り結ぶ過去からの警告なのかも知れない。

 現実を忘れて過去の幻を追い、記憶の中で耽溺する地獄のような幸福。

 ぼろぼろに腐ってどこまでも落ちてゆくことを望んだものだけが知る絶望の悦楽。

 あの時、原田はそんな魔窟の扉の前で踏みとどまった。

 その経験が原田を変えた。

 どんな現実でも直視できるようになったと思っていた。

 原田は両手を合わせ、震えを止めようと固く握り締めた。

 目を閉じて、ひとみの顔を思い浮かべた。

 笑顔の代わりに、陰りが深くしみついた死相が見えた。

 妄想の中で、陰りは刻々と増殖してゆく。

 そして突然、死を司るものの影に怯えている自分に気づいた。

 粘つくような汗が再び全身ににじんだ。

 原田は無残な現実をまたひとつ認めた。



C-6


 3年前の秋。

 白猫は柿の木の上にいた。

 枝先にはスズメがいた。熟れた柿の実を啄んでいた。

 白猫は枝を揺することなく近づいた。わずかな向かい風を感じながら。

 その時、木の下で子どものかん高い声がした。

 塀からはみ出した太い枝の下は道になっていた。

 白猫には人間の言葉の意味はわからなかったが、声の響きから自分に向けられているものであることを察知した。

 一瞬、迷った。

 何に迷ったのかは定かではなかったが、そのために動きを止め、下を見た。

 そして、急接近してくるエンジン音。

 木の下には子どもが二人いた。

 その一人が白猫に何かを向けていた。

 それがオモチャの空気銃であることなど、白猫にはわからなかった。

 白猫が子どもを見た瞬間、タン!と小さな音がした。

 同時に左目の上に激痛が走った。

 虚をつかれた白猫は爪をすべらせて木から落ちた。そこにオートバイが突っ込んできた。

 爆走してきた大型オートバイにはじき飛ばされて、白猫はブロック塀に叩きつけられた。

 急制動をかけたバイクの前後輪が悲鳴を上げた。

 バイクは真横を向いて止まり、スズメと子どもは逃げた。

 衝撃に肋骨を数本へし折られながら、白猫は反射的に走った。

 柿の木のある家の庭に逃げ込んだ。

 その奥の片すみで力尽き、白猫は意識を失った。

 バイクに乗っていた少年は道路につばを吐き捨てると、再びエンジンの爆音を響かせて走り去った。

 しばらくして気がついた時、白猫は肩からわき腹にかけて暖かく触れているものを感じた。柔らかくしみ入るように撫でている感触があった。

 折れた肋骨の上を心地よく…。

 次の瞬間、白猫はとび起きた。

 防衛本能に突き動かされ、自分に触れていたものに爪を立てて跳び退いた。

 白猫はそこに幼女を見た。

 幼女の白く細い右手の上には、三本の赤いスジが引かれていた。

 自分の爪が切り裂いたものであることに気づいた。

 見る間にその傷口から血があふれ出した。

 血は手首から指先を伝い、雫となって枯れた落ち葉の上にしたたり落ちた。

 幼女は静かな目でずっと白猫を見ていた。

 右手の傷に目を落とし、寂しげな瞳でもう一度白猫を見た。

 二度目に少女と目が合った時、白猫は逃げた。

 折れた肋骨の痛みも忘れてがむしゃらに走った。

 塀を乗り越え、生け垣をくぐり抜けて走り続けた。

 住み処にしていた空き家の縁の下に潜り込むと、やっと足を止めた。

 その場に身を横たえ、そのまま眠りに落ちた。

 まる一日眠ると、白猫は起き上がれるようになっていた。

 まだ痛みは残っていたが、体を動かすのに支障をきたす程ではなかった。

 その後も、傷は急速に回復していった。

 数日後には痛みは完全に消えた。

 それに代わり、奇妙な疼きがわき腹に宿った。

 白猫の心臓の動きに合わせて脈打つようなものが肌の下に生まれた。

 それからひと月後。

 白猫の体毛が抜け替わった。

 くすんだ毛が抜け落ち、後から生えてきた毛には艶が蘇っていた。

 それとともに毛に隠れていた肌の皺が消え、歯も再生した。

 白猫は全盛期の肉体をとり戻した。

 その頃から、意志による異質な能力を操れるようになっていった。

 結果、白猫は獲物を簡単に捕えることができるようになった。

 ただ感知し、望むだけでよかった。

 さらにその獲物を殺す時、血肉と一緒にその命の輝きを味わうようになった。

 恐怖と絶望のうちに獲物の命が燃え尽きる瞬間、普段は気にならないわき腹の疼きを強く感じた。

 新しい肉体に共存している“力”がそれを求めた。

 白猫の日常も変わった。

 以前よりも夜を好むようになり、昼の間は住み処の暗がりで寝て過ごした。

 他の猫たちは自然に白猫から遠ざかった。

 白猫は魔獣に生まれ変わった。

 それでも人の目には野良猫であることに代わりはなく、白猫自身も変化をあまり自覚してはいなかった。

 子猫の頃に爪と牙の使い方を自然に覚えたように、新しい意識の使い方を知ったぐらいにしか感じてはいなかった。

 仲間たちが周りから去っても、一向に気にならなかった。

 それでも、歳月を追うごとにその力は増幅していった。

 やがて三年が過ぎ、白猫の意識と融合した〃力〃が十分に覚醒した頃。

 白猫は己の死が近づいていることを知った。


B-6


 原田は往診用鞄の器具と薬剤を確認した。

 ひとみに投与した抗生物質と点滴用リンガー液を最後に補ってふたを閉じた。

 それらのものが、たぶん役に立たないであろうことはわかっていた。

 薬や医療器具のみならず、恐らく原田自身さえも。

 『常識』が最後の抵抗を示した。

 ひとみはただの風邪かも知れない。

 命に別状などあるものか、と叫んだ。

 早く救急病院に連絡しろ。

 救急車に乗せてしまえば、患者の身に何が起きても町医者のおまえの責任ではなくなる

 のだぞ、と『医師の立場』が悲鳴を上げた。

「だまれ、腑抜け…」

 原田は自分の卑劣な部分に向かって言葉を吐きつけた。

 その声は暗い淀みに小さな灯をともした。

 胃の辺りがジリジリと熱くなる。唇を噛み、拳を固く握りしめた。

「今、行くから…」

 かすれた声でつぶやいた。

 原田はやっと、直感が描いた現実を直視することができた。

 恐らく、ひとみは死ぬ。

 ひとみの元にいても、何もしてやれないかも知れない。

 だが、それでも。

 いや、だからこそ尚更行かねばならないのだと原田は思った。

 三日前ひとみはこの診療所で悪夢に立ち向かう決心をした。

 それを促したのは原田だった。

 そして今、ひとみは病魔と闘っている。

 原田は、意識のないまま縫いぐるみの名を呼んだ時のひとみの声を思い出した。

 あれは愛着のあるものへの甘えなどでは決してなかった。

 むしろ、大切なものとの決別を認めた者の毅然とした声だった。

 原田の目に涙がにじんだ。

 絶望の涙でも懺悔の涙でもなかった。

 あの幼い身で、幼い心で、迫り来る死に神と必死で戦っているひとみの姿を思い、その逞しさに心が揺れた。

「…すぐに行くからな」

 もう一度、小さく、力強く、確かめるようにつぶやいた。

 迷いは消えた。

 原田は立ち上がり、鞄を掴んで部屋を出た。

 玄関で一度立ち止まり、妻の位牌のある方に顔を向けた。

「行ってくる、幸江」

 見ていてやってくれ、幸江。

 大切な友だちが戦っている姿を。

 何もしてやれなくても、例えどんな結果になろうとも。

 私がお前を最後まで見つめていたことをずっと誇りにしてきたように、この現実をしっ

 かりと見つめていてくれ。

 原田は玄関の扉を叩き割るような勢いで閉めると、冷たい夜に駆け出した。



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