幻跡行ひと夜

著 : 中村 一朗

A-1


 夏の終わり、祭りの夜。

 雲ひとつない天空の闇から、一つ目のような満月が見下ろす。

 神社の境内を照らす無数の篝火と、行き交う人々。

 立ち止まる人と歩み去る賑やかな人の群れ。さまざまな格好の大人や子ども。

 和服や洋服だけではなく、軍服のものもいれば、もんぺ姿のものもいる。

 昔の服を着た見知らぬ人たちの、見知らぬ祭りだ。

 明るい女の笑い声に、酔った男の叫び声が重なる。

 仲間同士ではしゃぐ子どもたちが走り回り、目を細めて老人たちが語り合っている。

 沿道に店を連ねて客の気を引こうとする的屋たちの濁声は、途切れることを知らない。

 笛と太鼓の祭り囃に浮かれる人の波を縫うように、島村ひとみは白い和服姿の女に手を

 引かれて歩いてゆく。その手はいつものように力強く、井戸水のように冷たい。

 またあの夢だ、とひとみは思った。

 同じ夢を以前にも何度か見たことがある。

 目が覚めると忘れてしまうことも、夢の中では簡単に思い出すことができた。

 それに気づいている自分のことも不思議に思いながら。

 そしていつもと同じように、女を見上げて問いかける。

「どこに行くの?」

 ひとみの問いかけに、女は振り向きもせず、何も答えようとしない。

 ただ手を引いて、ひとみを導いてゆくだけだった。

 やはりいつもと同じように。

 いくら見上げても、小さなひとみからは女の顔をのぞき見ることはできない。

 まっすぐ伸びている女の長い髪の毛が邪魔になって、白いうなじがかすかに見えるだけ。

 手を引かれながら、ひとみは自分の姿に目を落とした。

 普段着のまま。小学校に行く時に着ているいつもの服装だった。

 周りの人たちの、昔の格好とは全然違う。

 やがて、二人は階段にさしかかった。

 女は流れるような足取りで階段を下りてゆく。

 いやおうなしに、ひとみもその後を追った。

 長い石の階段を下りるにつれ、祭りの灯りが遠ざかってゆく。

 人の姿がいつの間にかまばらになり、喧騒もだんだん小さくなって…。

 いつもはここで目が覚める。

 きっと今日もそうだと思っていた。

 だが、終わるはずの夢に続きがあった。

 人影はもう絶えていた。

 暗い夜道のような階段を、白い和服の女とひとみだけが下りてゆく。

 女の履いている駒下駄の乾いた音がカラッ、カラッ、と石段に響く。

 淡い灯籠の中に揺れる蝋燭の光と影。

 わずかな月明かり。

 顔も知らぬ女の後ろ姿。

 いつの間にか女の右手には、提灯を吊した樫木の柄が握られていた。

「ねえ、どこに行くの?」と、ひとみは再び問いかけた。

 答える代わりに、女はひとみの手を強く引いた。

 ひとみは引きずられるように階段を下りていく。

 前方には灰色の大きな鳥居があった。

 階段はそこで終わっている。

 階段を下りきり、鳥居をくぐると女は立ち止まった。

 それでもひとみの手を握ったまま。

「…離して」ひとみは挑むように言った。

 手を離さぬまま、暗がりで女が振り返る。

 ひとみは、初めて見るその顔を凝視した。

 母の顔によく似ていた。年は母より少し上くらいだった。

 が、その目に宿っているものはゾッとするほど冷たい。

 氷のような視線がじっとひとみに注がれていた。

 顔に大きな痣があった。右の目の下から顎にかけて。

 それでも女は、とてもきれいに見えた。

 女の口元が小さく歪んだ。その手に力がこもる。

 ひとみの手を握りつぶそうとするように強く。

 ひとみは歯を食いしばって睨み返した。

「ゴン!」ひとみが叫んだ。

 ひとみの影の中から何かが飛び出した。

 ひとみの体よりも大きな茶色い縫いぐるみだった。

 それは、瞬く速さでひとみと女の間に割って入った。

 同時に、右腕の鋭いカギ爪を閃かせる。

 女の腕が肘のところで切断され、ひとみはバランスを崩して石畳の上に投げ出された。

 すぐに、千切れた女の腕を自分の右手から振り払って立ち上がり、身構える。

 茶色の縫いぐるみは、すでにひとみの影の中に消えていた。

 女は無表情のまま、自分の腕が切り裂かれる様を人ごとのように見ていた。

 傷口からは一滴の血も流れていない。

 千切れた自分の腕に目をやると、頬にきゅっと皺が刻まれた。

 そのまま、顔をひとみに向ける。

 生き人形が笑っている、とひとみは思った。

<…おまえの番だ…>

 人形は口を開かず、ひとみにそう告げてきた。

 階段の上。見上げる女の背後には、黒い影の鳥居と、銀色に輝く大きな月。

<…その命が、役に立つ…おまえの番だ…>

 同じ言葉を繰り返す人形を、ひとみはじっと見つめた。

 何年も前から、ひとみに同じ夢を繰り返し見せていた誰かの“意思”。

 その警告を伝えるため、人形のかたちでひとみの心に忍び込んできた幻影の記憶。

 目的を終えて、いつの間にか人形は崩壊を始めていた。

 腕や顔のみならず服の上にまで、細かいひびが人形の全身にみるみる広がっていった。

 そして、突然燃え上がった。人形の内側から外に向かって炎が激しく噴き出す。

<…おまえの番だ…。そして死の淵へ…>

 ひとみは両手をかざして顔を背け、目を閉じた。

 途端に意識が遠のいてゆく。

 心の扉の向こう側にいるもう一人のひとみが、やがて目を覚ますはずだった。

 夢が終わろうとしている一方で、ひとみは何かが彼方から近づいてくる音を聞いた。

 雨の中で重い荷物を引きずるような…。

 ベシャ…ズルッ…、…ベシャ…ズルッ…

 もうすぐ、あれがやって来る。

 目を覚ますのはこれが最後かも知れない、と島村ひとみは幼い心でそう直感した。


 時刻は午前零時半を少し過ぎていた。

 目を開ける直前に最初に感じたのは自分の心臓の鼓動だった。

 耳の中にまで響いてくるような心臓の大きな音。

 誰かに聞こえてしまうのではないかと、思わず胸を押さえる。

 やがてひとみは暗い部屋の中で上体を起こし、隣の部屋がある方に顔を向けた。

 襖で隔てられた向こう側では、朝の早い父と母が寝ついている。

 二人の気配を感じると、悪夢が心に落とした陰りが少しだけ薄らいだ。

 夢の記憶はない。

 だが、不吉なものが自分の心にガッチリと食い込んでいるのは確かだった。

 それを誰にも告げることができないことがつらかった。

 部屋の片すみには真新しい机がある。

 椅子に掛かっている赤いランドセルは、今年から小学校に入学したひとみに父方の祖母が買ってくれたものだった。

 ランドセルを手渡しながら、ひとみももうすぐ大人だね、と祖母が言ってくれた。母は、まだまだずっと先ですよ、と笑った。

 あの時の二人の会話がひとみにはとても嬉しかった。

 頭を巡らし、押入れの方を見た。

 中には縫いぐるみのクマの〃ゴン〃がしまってある。

 四歳の誕生日に父が買ってきてくれたものでずっと大切にしていた。

 昼夜を問わずに、いつも一緒に過ごしてきた。

 でももう小学生なのだからと、ここに引っ越してきた日にひとみは自分で押入れに片付けてしまった。

 急にゴンの姿を見たくなり、押入れをあけようかと思ったが、やめておいた。

 布団に身を沈め、目を閉じる。

 ぬくもりを体で感じて、自分が小さく震えていたことを知った。

 寒さのためだけではない別の理由があるはずだったが、ひとみ自身にもそれが何なのかはわからなかった。

 ただ、こんな夜がいつかは来るのではないかと、幼い頃からずっと思っていた。

<…死の淵へ…>

 暗黒の記憶の底から声がした。

 まどろみがゆっくりとひとみを包み込んでゆく。

 心の奥の扉が開き始めた。

 引っ越してきたばかりの新しい部屋の内と外にある大切なもののことをもう一度考えた。

 優しい父と母。新しい学校でできたばかりの新しい友だち。新しい机と赤いランドセル。

 押入れの奥でうずくまっているゴン。懐かしい思い出と将来の夢…。

 それらのすべてに、今は別れを告げなければならない。なぜならば、

<…おまえの番…>だから。

 やがてひとみは、もう二度と開くことはないかもしれない扉の奥に踏み込んだ。

 ガチャリ。

 誰も解くことのできない鍵が、魂の扉に掛けられた。



B-1


 そこは、小学校の教室だった。

 誰もいない放課後。

 動くものは壁の時計の振り子だけ。ただし、音は何も聞こえない。

 “彼”は教室の中央にぼんやりとたたずんでいた。

 ふと振り返る。

 すると、そこに少女がいた。

 教室の一番後ろの席にぽつんとひとり座っている。

 近づいてみると、少女は驚いたように顔を上げた。

 知っている顔。確か“島村ひとみ”と言った。

 今年、小学校に入学したばかりの筈。年齢は七歳。

 ひとみは“彼”をじっと見つめ返していた。

 机の上にはチェス盤が置いてあり、ポーンがひとつだけ動かされている。

 “彼”は椅子をどかしてひとみの反対側の床に腰を下ろした。

 対面のポーンを動かそうとして自分の腕のありさまに気がついた。

 太い腕が、茶色い獣毛でびっしりと覆われていた。

 唖然としながら、両手を顔の前にかざしてみる。

 そこには、指のない毛むくじゃらの塊が目に映った。

 [両手]かも知れないそれをこすり、頬に当ててみる。

 掌と同じ毛むくじゃらの感触が返ってきた。

 体を見下ろして初めて、“彼”は自分が等身大の縫いぐるみになってしまっていることを知った。

 もう一度、[両手]を見る。

 力を入れると、その先から鋼鉄のカギ爪が三本づつジャッと音を立てて飛び出した。

 縫いぐるみはその右手のカギ爪をうまくに使って、ポーンを動かした。

 “彼”がポーンを進める様を、ひとみはじっと見ていた。

 カギ爪を持ったクマの縫いぐるみを見ても、恐れている様子はない。

 やがてひとみは次のコマを動かした。

 “彼”も、すぐにその次の手をさす。

 誰もいない教室で、島村ひとみと縫いぐるみのチェスは続いた。

 勝負は序盤からひとみが優位に立った。

 彼は八手目でナイトを二つとも取られ、十手目ではクィーンも相手方の手に渡ってしまった。負けているのに、“彼”は嬉しかった。

「今日は勝てるかも知れないな」

 ひとみは笑った。縫いぐるみも笑おうとしたが、頬は動かなかった。口がないから、声も出せなかった。

「“ゴン”のカッコでも、お医者の先生に勝てたら嬉しいや」

 “彼”はもう一度微笑もうと努めたが首をかしげて見せるのがやっとだった。

 やがて十三手目でビショップを取ろうと手をのばしかけた時、突然ひとみは黒板のある方を向いて目を見開いた。

 つられて振り返ると、黒板は大きな一枚窓に変わっていた。

 夕暮れの日差しがゆっくりと引いていき、代わりに薄闇が校庭を包み始めていた。

 教室の明かりも、少し前まで黒板だったそこからの鈍い光だけ。

 濃い霧を透かして見えるその奥の、虚ろな森の景色を灰色に染めてゆく。

 そしていきなり、黒板の窓がグラリと揺れた。

 ひとみよりも少しはやく縫いぐるみが先に立ち上がった。

 その勢いで机が傾ぎ、チェス盤が床に落ちてコマが床に散乱した。

 乾いた音が教室に響く。

 おびえる気配を背に感じて、縫いぐるみはひとみをかばうように窓を睨み据えた。

 その中で、何かが蠢くのを見て身構える。

 灰色の光が閃いた瞬間、窓から現れた巨大な触手が“彼”の右肩と胸を貫いた。

 同時に、鋭い刃を持つ三本目の触手が縫いぐるみの右手を切断する。“彼”はその弾みで吹き飛ばされた。吹き出した黒いタールのような血が、宙に弧を描いた。

 激しく壁に叩きつけられながらも“彼”は、ひとみが喉の奥で悲鳴を押し殺したのがわかった。“彼”はふらつきながら立ち上がった。

 大量の血を流していても痛みはない。何も感じず、何も考えることができなかった。

 失血で薄れゆく意識の中で、“彼”は近よってくる“そいつ”に笑いかけようとさえした。

「早く!」と、ひとみが叫んだ。

 気がつくと、ひとみが“彼”の傍らにすがりついていた。

 黒い返り血に染まりながら、促すように両手で激しく揺すった。

「早く、起きて!」

 反射的に“彼”は窓から目を背け、ひとみを抱きしめた。

 途端に教室の輪郭に亀裂が走った。

 時間が記憶と意識を乗せたまま土くれのように崩れ出す。

 いくつかの感情の揺らぎが、そこにうがたれた真っ黒い扉の中に向かって明滅しながら消えてゆく。

 そして虚無が幻影を飲み込んだ。



B-2


 目が覚めた時、原田清蔵はそこが診察室のソファーの上であることに思い当たるまでしばらくかかった。

 額にうっすらとにじんだ汗を白衣のそででぬぐい、親指と人差し指で目を押さえた。

 暗がりに目が慣れてくると、月明かりで壁の時計を読むことができた。

 午前1時43分。

 処方箋を書いていた時に急な睡魔に襲われてソファーで横になったのが午後11時少し前だったから、3時間近くもうたた寝をしていたことになる。

 危険なことに、ガスストーブはつけたまま。

 それでも、板張りの診察室は寒かった。

 にもかかわらず、寝汗で全身がぐっしょりと濡れていた。

 おそらく腕枕でもしていたのであろう右腕が、しびれて何の感覚もなくなっていた。

 体の節々にも不快な痛みが残っていた。

 酒を断ってから久しくこういうことがなかった事を思い、10年前に死んだ妻の位牌がある方にチラリと目を向けてから身を起こす。

 明かりをつけ、湯飲みに水をついでひと口飲んだ。

 原田は悪夢を見て目を覚ましたらしい自分を認め、診察を受けに来た島村ひとみの事を思い返して苦笑いを浮かべた。

 ひとみが母親の小夜子に連れられて原田の診療所に来たのは三日前だった。

 ふたりともこの町の生まれで、以前から良く知っていた。

 一家は父親である良平の仕事の都合で三年ほど東京に住んでいたが、ひと月前にこの町に戻ってきた。一家とはいっても両親とひとりっ子のひとみの三人家族だった。

 そしてこの町の小学校に転校してから暫くして、ひとみは奇妙な不眠症に悩まされるようになったという。

 原田はひとみの体を診察し、特に異常がないことを確かめた。

 地方にある小さな町の診療所だから完全な精密検査はできなかったが、診断には確信があった。医師としての経歴が原田の自信を裏付けていた。

 戦前から戦後にかけて東京にある国立病院で外科部長をしていた方ではなく、退職後にこの十年間で町の人々から絶大な信頼を受けるに至った方の経歴が、である。

 診察の後、原田はひとみが好きだというチェスをしながら問診した。

 一時間のうちに、原田は容赦なくひとみのキングを三度取り上げた。

 三度目の敗北を喫した時、ひとみは地団駄を踏んで悔しがった。

 反面、ふたりは打ち解けて話し合うことができるようになっていた。

 ひとみは夢に現れる断片的な情景をぽつりぽつりと語った。

 おぼろげな記憶ではあっても、どの夢にも共通してひとみを敵対するものと守ろうとするものが現れていた。特に“ゴン”という名のクマの縫いぐるみはひとみを守るものとして幾度か姿を見せていたらしい。

 “ゴン”の姿を借りて、ある時は父親が。ある時は母親が。

 原田は最初、ひとみの不眠症の原因が無意識による登校拒否の可能性を考えていた。

 学校に行こうと考える良い子の“ひとみ”と新しい環境に不安を覚えているもう一人の“ひとみ”が夢の中で競り合っているのではないか、と。

 診察の短い時間でも、ひとみが並みはずれて賢い子であることは確認できた。

 学力があるということではなく、同年代の子と比べて強過ぎる感受性を持っている。

 そうした子には理由のわかりにくい登校拒否はよくあるケースだった。洞察力を纏う前の敏感過ぎる感受性は、時として他人や自分を傷つける両刃の剣となる。

 だが原田は、ひとみの話を聞いているうちに単純に一般論に当てはめる事が正しく思えなくなってきた。

 話の内容からではなく、ひとみの目の奥に揺れる別の陰りに気づいたからだった。

 悪夢を紡ぎ出す何かがそこに潜んでいた。

 その正体を尋ねても、ひとみにはすぐに答える事はできないだろうと原田は判断した。

 たとえその答を導き出せたとしても、重要なのは悪夢の原因を探ることではなく、むしろどう対処するかにある。

 いかなる場合でも、自分の心の闇と渡り合えるのは自分だけである事を、原田は知り過ぎるくらいよく知っていた。

 子どもでも例外ではない。

 最後に原田はひとみに、

「今夜も夢を見るのが怖いかのかな?」と、問いかけた。

 ひとみはキッと見つめ返して、

「今日からちゃんと寝て見せるよ!」と、宣言して帰っていった。

 原田はひとみの強気を笑顔で見送った。

 もう心配はないと自分にも言い聞かせようとした時、原田は奇妙な胸騒ぎに襲われた。

 ひとみの目にあった陰りが、原田の意識に黒いしみを投げかけていた。

 それは原田が幼い頃に目撃したおぞましい光景を滋養にして増殖し、この三日間で悪夢を見せるまでに成長していたのかも知れない。

 幼い日のあの記憶。

 悪い疫病が子どもの間で流行っていたころの事だった。

 学校の帰りに、火事だと思って駆けつけた原田は偶然仲間たちと一緒に目撃した。

 神社の境内で、紅蓮の炎に包まれて座ったまま焼け死んだ巫女の姿を。

 長い髪はすでに燃えつき、異臭を放ちながら肉が落ち、生焼けのまま崩れてゆく様を。

 少し前まで人間だったものが牛や豚のように焼かれ、油をたらしながら爛れた肉の塊になってゆくところを。

 親しかったわけではない。それでも知っている人だった。

 あの〃知っている人間だったもの〃は、ひとみの曾祖母にあたるという…

 舌打ちと共に、その考えを断ち切った。

 湯飲みの底に沈んで揺れている影をじっと見ていた自分に気づいた。

 原田は一気に飲みほした。

 水は苦い味がした。



C-1


 白猫は町に戻ってきた。

 町外れの神社にある古い社の縁の下にうずくまり、じっと闇を見据えていた。

 両眼に映っているものはその暗がりではない。

 因果の彼方にある魔幻の領域を覗いていた。

 幾層にも連なる蜘蛛の巣のようなそこには、二つの人間の意識が搦め捕られていた。

 ひとつはすでに取り込まれてしまっており、もうひとつはあわやのところでうまく逃れたところだった。

 白猫は意識の位相を切り替えて、視界を現し世に戻した。

異界の幻影が消えて、薄闇が帰ってくると、崩れかけた縁側からわずかに差している月光

 を認めることができた。

 同時に、埃と黴と血の匂いが周囲の静寂とともに蘇る。

 腹の下の冷たく湿った土にしみ込んでゆくわが身の体温を意識しながら、白猫は乾きかけている血のついた前足を何度もなめた。

 食べ残していたネズミたちの頭に目をやり、次々に口に含んで、バリバリと音を立てて噛み砕いては飲み込んだ。

 その間、白猫の尻尾はそれだけが別の生き物のように滑らかに動き続けていた。

 きれいになった前足で顔をぬぐい、中型犬ほどの巨体を揺すって外に出る。

 縁の下の傍らで空を仰いでいる白猫の黒い影が灰色の石畳に浮かび上がった。

 晩秋の満月の光に目を細めると、風のように身をひるがえして神社を後にした。



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