ソフト考現学

著 : 中村 一朗

III : 「エクソシスト」


○“悪魔”対“人間”の物語

 七十年代前半に空前の世界的オカルトブームを生み出したきっかけの作品。

 無垢な少女にとり憑いた“悪魔”に、神父という職能の現代の“人間”が戦いを挑む。

 それがこの物語『エクソシスト』の骨子だった。

 でも、物語の展開はそう単純ではない。

 日本では馴染みの薄いキリスト教思想の“信仰”と“絶対悪”の本質を問う、複雑で精巧な恐怖の文芸作品に仕上げられている。それも、原作者のW.P.ブラッティが制作に携わったこともあって、小説のストーリー展開に忠実なかたちで。


 舞台は、現代のワシントン。撮影に訪れた名女優クリス・マックニールの溺愛する一人娘リーガンが、突然、異常な行動をとり始めた。パーティ会場での失禁や不気味な予言に、クリスの不安は恐怖へとシフトしていく。同時に周囲に次々と起き始める怪事件や怪現象。部屋を冷気で満たし、手を触れずにベッドを揺らし、空中へと浮遊するリーガン。やがて、股間に十字架をつきたてて神を冒涜する少女の姿に、母親は絶望に泣き叫んだ。

 近代科学と最先端医療をも嘲笑う出来事に、万策尽きた母親は一縷の望みを教会に悪魔払いの儀式に託そうとした。この相談を受けたのが、ディミアン・カラス神父だった。

 カラス神父は心理学の学位を持つ秀才。だがその一方、彼は修道の過程で、母親を孤独死に追い込んでしまった慙愧(ざんき)の念を胸に深く秘めていた。

 神父の中で揺らぐ信仰心。

 神を信じる故に、なぜ人は、これほどまでに苦しまねばならないのか。

 カラス神父は“悪魔の少女”リーガンに会う決意をする。哀れな少女を助けたいというより、彼女にとり憑く悪魔の存在を認めることで、自らの信仰を取り戻せると考えてのことだった。即ち、悪魔の存在が逆説的に神の存在を裏図けるもの、と。

 そして、“お前”は誰だと、問いかけるために。

 カラス神父は科学者の視点でリーガンの引き起こす超常現象に挑んでいく。

 物体移動や様々な知識は少女の念力やテレパシーなどの異能力によるものとして、“悪魔”はリーガンの潜在意識が創りあげた“多重人格”なのではないかと疑いつつ。

 それを証明するために、カラス神父はカウンセラーとして“悪魔”との対話でその正体を暴こうとした。十字架を押し付け、聖水と騙してただの水道水をふりかけもした。しかし逆に心の傷をえぐられ、かさぶたをはがされてあふれ出した精神の鮮血は、容赦なくカラスの自責の心を苛んでいく。その様を冷たく凝視する“悪魔=リーガン”。

 結局、カラス神父は悪魔実在の確証を得られないまま、教会中央に悪魔祓いの儀式執行を申請した。それで少女を救えるならと、半信半疑の思いで。

 教会中央は、唯一の悪魔祓いの経験者であるランケスター・メリン神父を派遣した。

 少女の中に少なくとも三つの人格があると語るカラス神父に対して、メリン神父は敵が唯一人であることを告げる。古代アッシリアの悪霊パズズ。メリン神父の宿敵だった。

 さらにメリン神父はカラス神父に、悪霊との対話を禁じた。嘘と真実を混ぜることで、相手の心を翻弄するためだ。さらに彼は、無垢なひとりを汚すことで周囲の善良な多くの人々を苦しめることが悪霊の目的なのだと教えた。だから会話など、無意味なのだ、と。

 やがて、メリン神父と悪魔との戦いが始まった。カラスはうろたえながら助手を務めるが、その最中にメリン神父は落命してしまう。激高したカラス神父は理性や聖書さえ捨ててリーガンに掴みかかり、自身の体を投げ出して最後の賭けに打って出る…


○オカルトブームの深層

 アメリカでの公開時、映画館は大騒ぎになった。

 衝撃的な内容に卒倒した観客たちを、救急車が次々に病院に運んだ姿が日本でも報道された。翌年の日本での劇場公開の直前は、その時の様がキャンペーンに用いられて話題を呼び、異例の大ヒットになった。少年週刊誌でさえも、物凄いオカルト映画がアメリカやって来ると、巻頭カラーで大々的にこの作品を紹介していた。

 しかし、事前キャンペーンで日本に伝えられた“怖さ”は、美少女が心身ともに怪物に変貌していくシーンが中心。元々、様々な怪談やホラー漫画の先進国だった日本にとっては、『エクソシスト』は単発のヒット映画になっただけだった。

 早い話が、世界を席巻していたオカルトブームは日本には上陸はしなかった。

 幸か不幸か、欧米のサブカルチャーブームから取り残された日本。

 結果、日本は続いてやってきた空手映画の洗礼を受けて空前の武道ブームや、アニメブームに展開していく礎を、この七十年代の中ごろに構築していくことになるのだけれど、そのあたりの詳しい事情については、またいずれかの機会にでも。


 アメリカの劇場でひっくり返った人たちは、多くが敬虔なカトリックの信者だったという。公開直後から一部の過激なカトリック系教会の保守派から上映の反対運動が持ち上がり、やがて多くの州で18歳未満の観賞を禁じるに至った。

 アメリカのみならずヨーロッパ諸国でも、この作品上映に対して多くの規制がなされた。

 理由は、悪魔に敗北する神父たちの姿を描いていると解釈した彼らの抗議運動による。

 アメリカ文化に衝撃を与えた『エクソシスト』の“怖さ”の本質は、日本で吹聴されていたような表面的な衝撃シーンではなかったのだ。

 絶対神キリストの御名においても調伏できない、異教の悪魔の存在。その悪魔が神の先兵のはずだった神父を殺してしまった。信仰心の厚い人々が感じたこの映画の“怖さ”の本質はここにあった。即ち、キリストの敗北を描いた作品なのだ、と…。

 僕はこれらの視聴規制についてはここでとやかく言うつもりはないけど、こうした議論や騒乱がオカルトブームに拍車をかけ、さらに宗教思想を脱色して商品化されたモダンホラーブームへと新たな流れを築いていくことになっていたのだと思う。

 そして神は去り、地上には人間と悪魔が残された。

 恐らくこれが、七十年代以降のホラーストーリーの共通コンセプトを表す言葉。消えてしまった神々の影にすがるのではなく、毅然としてその別れを認めつつも、残された栄光を胸に刻んで生きる人間の逞しさを歌い上げる作品が続々と送り出されていった。

 74年に『キャリー』でデビューした作家スティーブン・キングはモダンホラーの旗手として祭り上げられた。そしてそれまで一部マニアのためのマイナージャンルだったホラー小説の常識をことごとく塗り替えて、ドル箱商品に作り変えていく。その多くの長編が、強力な“悪”に対し、弱い人間たちが家族や愛する人のために命を懸けて戦う物語だった。

 だからこそ、恐怖をテーマにしているはずの物語が深い感動を呼んだ。

 『エクソシスト』においても、然り。

 苦悩するカラス神父は信仰を疑い、逆説的な意味で信仰を取り戻すために悪魔を頼った。メリン神父は信仰の中で死を迎えるが、決して悪魔に敗北したわけではなかった。彼の死により激怒したカラス神父は、見知らぬ少女のために全てを捨てて戦いを挑んだ。神父としてというよりも、ひとりの人間として全身全霊を賭して。

 恐らくこれこそが、信仰の本質なのだと僕は思う。

 最後の瞬間、皮肉なことにカラス神父は神の威光に頼らぬことで、その信仰を取り戻すことが出来たのだと僕は思う。涙ながらにカラス神父の最後の懺悔を問う友人に対して弱々しくその手を握り返すシーンが、この壮絶な物語の中で最も強く印象に残った。


『エクソシスト』が残した二つの遺伝子は、恐怖が創りだす類の“感動”と“衝撃”。

 “感動”はモダンホラーに引き継がれ、“衝撃”は『悪魔のいけにえ』などに象徴されるスプラッター(血みどろ)ブームを招聘してゆくことになる。

 ちなみに日本で本格的にスティーブン・キングが受け入れられてくるのは、S.キューブリック監督によって映画化された『シャイニング』が1980年に大ヒットして以降のこと。もっともキング自身はこの映画化作品が気に入らず、後に自らメガホンを手にしてテレビドラマ版として作り直している。でもやはり、個人的には小説版が一番好みかも…



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