山本浩太が突然の大声に驚いて飛び起きたのは、午前三時を少し回った頃だった。
場所は、自室のベッドの上。
普段は寝起きの悪い山本が、一瞬で目覚めた。
慌てて周囲をきょろきょろと見回す。
その声の主が自分だったことに気づいたのは、更にその少し後。
肌寒い11月の深夜のはずなのに、首筋にうっすらと汗がにじんでいた。
ベッドで上体を起こした。
傍らの照明のスイッチを押したとき、いきなり部屋の扉が開いた。
山本の視線の先には、見慣れた顔があった。
「どうしたのよ、浩太?」
不安げな顔を覗かせたのは、同居人の川上聡子。
学生時代からの腐れ縁で、付き合いだしてから六年。
同居し始めてからは三年になる。
トレーナーにジーンズ姿は、まだ聡子が寝ていなかった証だ。
「いや…なんか、さ。…よく、わかんねえんだけど…。おまえこそ、なんで?」
「あんたが、妙な声張り上げるからさ。あたしの部屋にも聞こえたんだよ。“ギャー!”とかってさ。まるで、つぶされたカエルみたいな声だった」
聡子の不安げな表情は、いつの間にか不満げなものに変わっていた。
「じゃあ、やっぱ…俺の声か」
「そう。寝言にしちゃあ、近所迷惑だよ」
「寝言なんか、言ったことねえんだけどなあ」
「ちょっと、起きてきなよ。明日は、休みなんでしょ。コーヒーでも淹れるわ」
ニッ、と笑って聡子はドアを閉めた。
パタパタと、スリッパが去っていく音を聞きながら、浩太はだらだらと立ち上がった。居間に行き、椅子に座った。
コーヒーを淹れている聡子のほっそりした後姿をぼんやりと見ていた。
聡子はフリーターだが、効率の良い短期のアルバイトを選んで働いている。
月に半分働いて、残りの半分は自由に時間を使う。今は編集プロダクションから校正の仕事を請け負っているので、自宅のパソコンで作業をしている。
聡子は並外れて機転が利く性格。
いや、利き過ぎる。
そのためにひとつの職場に長く落ち着けないのではないか、と浩太は思っている。
不器用で早寝早起きが得意の、役所勤めの浩太とはまるで正反対のライフスタンスだ。
「あんた、さ。ここんとこ、様子がおかしいよ」
「ああ。俺も、そう思う。どうも寝つきが悪いしさ。朝なんかも、スッキリしないし。もともと寝起きは良いほうなんだけど、…なあ」
差し出されたコーヒーに砂糖とミルクを入れながら、浩太は呟いた。
「病気…、て、訳でもなさそうだけどね」
聡子が言いたいことはすぐに察しがついた。
「あれからだよ。ほら、二週間前のバーベキュー。奥多摩でサブローたちとやった時の」
二週間前の十月下旬、浩太と聡子は学生時代の仲間六人で奥多摩・神戸岩の近くで日帰りキャンプに行った。その日の締めが、闇夜のバーベキューだった。
「変なキノコでも、食べた?」
聡子は笑いながら言ったが、妙に真剣な視線が浩太に注がれている。
「サブローが、“絶対に大丈夫!”って言ったヤツだけ。それと、幸彦が釣った魚ぐらいだよ。あれは焼いて食ったし。それ以外は、殆どの食材はスーパーで買ったしなあ」
呑気そうな口調とは裏腹に、浩太の胸のうちに冷たい冷気がうねる。
いつの間にか、二週間前の光景が脳裏に浮かんでいた。
月光に浮かび上がる灰色の岩肌と真っ黒い陰さえ。
その中央に、夜の闇よりもなお暗くぼっかりと開いた、行き止まりの洞窟の暗がり…
いや、まてよ、と浩太は思った。
バーベキューの夜には、行き止まりの洞窟なんかに行った覚えはない。
あれは、夢で見た洞窟だったかも…
浩太は熱いコーヒーを咽の奥に流し込んだ。
聡子も自分のコーヒーをひと口飲み、意を決した様子で口を開いた。
「昨日、今のバイト先に打ち合わせに行ったときにさ。若い子たちが噂してたんだよ。“バケトンの呪い”だって」
「“バケトン”?」
「お化けが出るって噂の幽霊トンネルのことだよ。ミステリーツアーごっこでは、“バケトン”ツアーは若い子達の間じゃあ結構な人気みたいよ」
「それで、バチ当たりなことをして悪霊に祟られる、ってか?」
「そう。そんな都市伝説が、うじゃうじゃ。あんたも、その仲間かもね」
「少なくとも俺は、バチ当たりなことはしなかったぜ」
聡子が目を細めて
「フン!」と、鼻を鳴らした。
「悪霊に祟られたって噂の主は、みんなそう言うの。ただ見に行っただけだ、って。ネットで検索すれば、そんな話ならいくらでも出で来るよ。どこかで聞いたような古臭くて嘘くさいヤツばっかだけどね」
浩太は目の前のコーヒーを一気に飲み干した。苦い味がした。
「おまえ、本気で言ってんの?」
「半分、本気」
「らしくねえな。どこかの宗教にでもかぶれたか?」
「あたしは、無神論の情報主義者。だから、オカルトは否定しないの。だってほら、妙に背筋が寒くなることってあるからさ」
聡子は浩太の目をじっと見ていた。目の奥に突き刺さるような真剣な眼差しで。
浩太も戸惑いながら、その視線をしっかりと受け止める。
背筋辺りに、ゾクリとする軽い痺れを感じていた。
しばらくの沈黙の後。
「何か、根拠でもあるのか?」
浩太は、自分の声が妙に低くかすれていることに気づいた。
「あんたは知らないかもしれないけど…。この二週間ずっと、夜中になると呟いているよ。“もう少し…もう少し…”って。寝ちゃった後に」
浩太の胸の奥に渦巻く冷気は、急速に氷塊に変わっていった。
作業開始から一時間後。
いつも最初に二の腕の筋肉が悲鳴をあげる。
骨まで凍りつきそうになる作業工掘の寒さに抗するために、がむしゃらに朝からツルハシを振るったツケがくるからだ。
すると、しっかりと握り締めた筈のツルハシが掌の中で踊りだす。
反動で手首と肩が痛み出す。
それを庇うように斜めからツルハシを岩肌に打ち込み続けると、必ず腰が痛み出す。
それでも、次の休憩まではツルハシを下ろすことは許されない。
だから、バレないように、少しだけ手を抜く。
ゆっくりとツルハシを振り上げ、力を抜いて岩肌に打ち込むのだ。
監視係は五間(約九メートル)ほど離れた詰め所にいる。
彼らが三田村の様子を伺っているのは、せいぜい作業開始から十分程度。
後はこちらに顔を向けることさえめったにない。
手元にある明かりは、薄暗いランタンの蝋燭の光だけ。
配置されている人員も、この特別試掘鉱区では三田村源蔵ひとりだけだ。
隋道掘削作業の特区が一人作業用に指定されているのは、落盤事故が多いためだ。
即ち、落盤事故が起きても、被害は一人だけで済むように人員が配置されていた。
実際、この半年あまりの強制労働で、同じ監房の中からだけでも三人が落盤事故で死亡しており、それらはすべて特区で起きている。
ランタンの蝋燭は手元の照明のためと同時に、炭酸ガスの警報機能も兼ね備えている。
蝋燭が消えれば、有害な炭酸ガスが発生した証拠。
それが確認された時には、恐らく三田村の意識も消える。
ただし、いままでの作業では炭酸ガスによる死者は出ていない。
意識を失って担ぎ出された者は多数いたが…。
三田村源蔵が投獄されたのは、政治色の強い集会に参加したことがきっかけだった。
昭和五年の世界恐慌の惨禍は日本にも飛び火し、国内経済を急激に悪化させていった。
一介の労働者だった源蔵は組合からの指示で、とある労働談義に参加し、その場に居合わせた軍備削減運動家たちと交流を持つようになった。
ただし、熱心な活動家というわけではなかった。
酒飲み仲間が活動していたから、会合に付き合っていたという程度だった。
やがて時代が変わり、日中戦争の激化で官憲が言論統制を断行。
労働運動や政治結社などの社会活動家に鋭い警戒の視線を向けるようになっていった。
数年後、三田村源蔵の名は憲兵隊の危険分子名簿に掲載され、そのひと月後に事情聴取の名目で警察本部に連行された。
身柄が憲兵隊本部に転送されたのは、その三日後。
危険分子とされた大抵の若者たちは、憲兵隊員による力強い“説得”ですぐに心を入れ替えた。
しかし、元々は大した政治的信念など持っていなかった三田村には、鉄拳による説得が逆効果になった。頑固なへそ曲がりの性が災いした。
取り調べ開始から三日後の昼。
往復ビンタの数が二桁に及んだ時、三田村は屈辱感に我を忘れた。
三田村の拳は取調官の一人の唇を捉えたが、わずかに血をにじませる程度の傷しかつけられなかった。
三田村の拳をほほで受け止めながらも、取調官は三田村に向けた冷たい視線を微動もさせなかった。直後、背後にいた憲兵たちが三田村の襟首を掴んだ。
次の瞬間からしばらくの出来事を、三田村は今も思い出せない。
医務室に運ばれて簡単な手当てを受けてからは、当たり前の手続きで処理された。
どちらが弁護士でどちらが検察官だか区別のつかない一方的な裁判の後、三田村の身柄は政治犯たちが収監される刑務所に送られた。
“皇国への献身的作業”という名の強制労働が始まったのは、その三ヵ月後。
始まりは、夏の終わりごろのことだった。
場所は、神奈川県から東京市に管理移管(飛び地扱い)された西多摩郡・小河内村。
ダム建設のための道路及び隧道試掘作業である。
不況をよそに東京市に集中する人口増加に対応するため、小河内ダムの建設計画が持ち上がったのは、昭和十二年。直ぐに調査が始められ、翌年の着工が議会で承認された。
試掘作業は危険が伴う。特に、崩れやすい箇所に隧道を掘るのは、危険と困難を極めた。そのために、作業員には政治犯などの危険分子が割り当てられた。
当初三田村にとり、地下での肉体作業はそれほど苦ではなかった。
まして夏場は隧道の中は外よりもずっと涼しく、刑務所にいるよりは強制労働の方がいいとさえ思っていた。
しかし、秋になると地中の冷気が骨身にしみこむようになった。
気温の低下と落盤事故の増加により、囚人ひとりの作業量は逆に増やされた。
特に頑健な体の三田村は、危険な最深部での単独掘削作業を担うことになっていった。
三田村たちには、自分たちがどこで作業しているのか聞かされていない。
間もなく開始される小河内ダム建設のための下準備をしている、という程度しか。
その日。作業開始から二時間後、ようやく小休止の時間が来た。
一日の四分の一が終了。
詰め所の近くに移動し、十五分の休憩。
近隣工区から戻ってきた顔見知りの囚人たちといっしょに、いつも通りあたたかな白湯が一杯、振舞われた。
誰もが俯いたままで、一言も口を聞こうとしない。
献身作業中に彼らがひそひそと小声で話をすることが許されるのは、作業隋道から外に出られる昼休みの間だけだ。
その間、十一月の凍てつく大気がぐっしょりと汗に濡れた下着を急速に冷やしていく。
休憩開始から十分後には、歯の根が合わぬほどガチガチと顎が震えた。
(もう少し、もう少し…)と、三田村は心の中で呟いている。
今日の作業が終了すれば、明日からはこの隧道掘削は春まで休工になる。
本格的に冬の到来を、これほど待ち望んだことはなかった。
運がよければ、冬の間は刑務所の中で過ごすことができる。
もっとも、別の献身作業に借り出されなければの場合だが。
やがて監視員の号令がかかり、三田村は再び作業に戻ることになった。
十五分の休憩で肉体の疲労はそれなりに回復した。
作業の再開は、冷え切った体を温められるから、寧ろ歓迎したいくらいだった。
ランタンを傍らに置き、ツルハシを振りかぶった。
腕の痺れはないが、力任せの打ち込みはしない。
つるはしの重さを利用して、着実に、ゆっくりと、穴を掘り広げていく。
最初の休憩後からは、作業に体調を合わせやすくなる。
それは強制労働だろうが、民間の工場作業や職人仕事だろうがみんな同じだ。
作業再開から十分もすると、新しく噴出した汗が体を温めてくれた。
次の休憩までの時間を、ツルハシを振るった数で計るだけの単調な作業。
いつもと変わらない、腰や腕に疲労を纏わせる重労働。
しかしその二十三分後、背後にズズッ、と不快な音を聞いた。
直後、振り返った三田村の頭上に、大量の土砂が降り注いできた。
三田村は身をかがめながら、反射的に両手を挙げて目と頭を庇った。
真っ黒い闇に押し包まれて、意識を失うのは十ヶ月振りだと、ぼんやりと考えていた。
翌日、山本浩太は奥多摩の山中にいた。
浩太に同行しているのは、聡子と“サブロー”こと篠塚喜三郎。
聡子が朝一番で車を持っているサブローを強引に呼び出し、躊躇う浩太を引きずるようにして奥多摩まで連れて来たのだ。
もっとも、呼び出されたサブローは満更でもない様子で、新手の都市伝説ツアーを楽しんでさえいた。
ドライブ日和の快晴。紅葉狩りのシーズンも終わり、交通量は少ない。
車中では、運転手のサブローが幾つもの幽霊話をノリの良い調子でしゃべり続けた。
助手席の浩太は仏頂面でその話に適当に相槌をうち、“悪漢三人組”の女ボスのような横座りで後部座席にくつろぐ聡子はサブローの話にケラケラと笑っていた。
「ところで、さあ。知ってたかい?小河内ダムの建設の時、作業員が87人も事故で死んでるんだぜ。ダムの脇には全員の名前入りの慰霊碑もある。その祟りだったりしてな」
「へえ、そうなの。でもさ、慰霊碑があるんなら、もうその人たちは成仏してるんじゃないの?それに、小河内ダムが出来たのって、昭和二十年代でしょ。今更、浩太に悪霊がとり憑いたりするはずないじゃん」
「わからないぜ。浩太が、知らないうちに、悪霊の封印か何かを蹴っ飛ばしたのかもしれない。何せあの時はみんな、けっこう酔っ払ってたからなあ。オレ以外はさ」
「あんた、酒飲めないし。それに、あの時も運転手だったからね。浩太もあんまり飲んでなかったよ。ほろ酔いぐらいだった」
「そんじゃあ、サトが真っ先に祟られなきゃあ不公平だ。ありゃあ、酷かったね」
サブローと聡子が大きな声で笑った。同時に二人の視線がチラリと浩太に向く。
二人が軽口を叩きあいながらも浩太のことを心配していることは十分に理解できた。いろいろと気を使ってくれていることも。
しかしそれでも、浩太は心の中に靄がかかっているような、ぼんやりしとした気分で窓の外を眺めたまま話を聞いていた。
「小河内ダムは、山を挟んで神戸岩の反対側だ」と、浩太。
「離れ過ぎだぜ…」
「いや、だから。ダムを作るのに、道を造らなきゃならなかったんだって。大昔の、あの青梅街道を作るのが大変だったらしいぜ。そのために、崩れやすい岩肌に隧道がたくさん掘られたんだよ。その時、何度もがけ崩れが起きて、人が死んだのさ」
「じゃあ、青梅街道ってバケトンだらけじゃん」
「ああ。そういうことだね。だから、慰霊碑があんの。神戸岩のまわりにも、幽霊が出るって噂のミステリースポットが幾つかあるんだぜ。もしかしたら、慰霊碑の87人以外にもたくさん死んでるのかもしれないしなあ。そしたら、恨みも残ってる筈さ…」
やがて一行は神戸岩のキャンプ場に車を置いた。
そこからは徒歩。
鋸山の山頂に向かうルートから枝道に入り、二週間前にバーベキューをしたところへと向かった。
途中、幽霊が出るという噂がある所を通り過ぎるたびに、サブローがおどろおどろしく解説した。手掘り隧道や対岸の岩肌の影を、泣いている人の顔に見えると指差しながら。
聡子はケラケラと笑い、山本は聞いてはいない様子で先を急いでいる。
登山道は正規のハイキングルートからは外れているものの、比較的広い道が続いている。無理をすれば四駆のジムニーなら、何とか上れる程度の幅員と斜度だった。
先頭に浩太。二番目に聡子。しんがりに、サブロー。
時刻は、午後一時三十四分。
「たしか、この辺だったよなあ」
サブローが、息を弾ませながら呟いた。
「もう少し、先。道は間違いないよ。登山道じゃないけど、踏み固めた跡があるから、ずっと昔からあった道だったのかもね」
ライトトレッキング程度の登山経験のある聡子が答えた。
二週間前も、“道らしい跡”を辿っていって広場を見つけたのだ。
やがて歩き始めてから、約一時間。
多少疲れを感じたのか、サブローの口数も少なくなっている。
“おねだり犬”のような目を聡子に向けていた。
その視線に気づいた聡子が振り返り、サブローの目をじっと覗き込む。
「あんた、休みたいんでしょ?」
聡子の言葉に、サブローは悲しそうな目でブツブツと呟いた。
おまえだって、そのうちメタボになればわかるんだ…、というサブローのぼやきに、聡子は笑みを浮かべた。
「わかったわよ。じゃ、少し休もう」
聡子は浩太が振り返るのを期待していたが、浩太は立ち止まりもせずに歩き続けている。その背中は、いつの間にか聡子から十メートルほど先に進んでいた。
「浩太!」と、サブローが呼びかけた。
その声に引きずられるように、ようやく足を止めた浩太が振り返った。
そのうつろな視線に、聡子はギクリとした。
今まで聡子が見たことのない暗い光が瞳の奥に宿っている。
一瞬、浩太が知らない他人に見えた。
「あんた、いったいどうしたのよ」
自分の声もまた、他人のもののような気がした。
「ああ、すまない。つい、急いでたみたいだ。でも、もうすぐだよ。ほら、もう見えてきた。すぐそこの屏風岩の横だからさ。悪いけど、先に行くよ」
浩太は再び歩き出し、二人は顔を見合わせた。
「やっぱ、さ。おかしいぜ、あいつ」
「だから!そう、言ってるじゃん!!」
二人は小休止を諦め、重い足取りで浩太の後に続いた。
「二週間前にくらべりゃあ、荷物がないだけましだよな。酒や肉なんかが、さ」
「そうだね」
やがて二分後。
一行は少し開けた広場に出た。
正面には、その広場を囲むように巨大な屏風状の崖が聳えていた。
左右には、獣道さえない深い森が続く。
二週間前に、彼らが簡易キャンプを張った場所に間違いない。
浩太が立ち止まり、後からやって来た聡子とサブローも周囲を見回して足を止める。
しかし浩太は彼らが立ち止まるのを待たずに、正面の崖に向かって歩き出した。
そして崖に沿って岩肌に触れながら左に向かった。
立ち止まり、岩肌を叩いてはまた歩き出す。
その叩き方は、最初は軽いものだったが、徐々に力強さを増していった。
やがてそれは、両手の拳の皮膚が破れて鮮血が噴出すほどの勢いになった。
「…おい、浩太。おまえ、いったい何を…」
サブローが自分の疲れも忘れて真剣な声で浩太の背中に問いかけた。
サブローの言葉は、聡子の心の言葉でもある。
顔の表情が見えないだけに、余計に不気味に思えた。
でも浩太のそんな顔なんか見たくない、と聡子は胸の奥で思いつつ。
その時、ふいに湧き上がってきた。
様子のおかしい浩太をここに連れてこようと言い出したのは聡子自身だったが、それは浩太をここに来させたかった“誰か”の意思によるものではなかったのか、と。即ち聡子もまた、知らぬ間に何かに操られていたのではなかったのか、と。
暖かいはずの晴天の冬の日差しが、心をえぐる冷気のように感じた。
「もう、帰ろう!なんか、すごい嫌な感じがする」
聡子がそう言った次の瞬間、岩肌を叩いていた浩太の体かぐらりと揺れた。
小さな音を立てて岩肌の一画が崩れた。
そこには、ぼっかりと開いた暗黒の空間。
浩太の体は、絡めとられるようにその中に飲み込まれていった。
その悪夢のような闇に向かって、二人は慌てて駆け寄った。
目を覚ました三田村が最初に見たのは、カンテラの蝋燭が照らし出す薄暗い岩肌だった。
反射的に右手で側頭部に触れると大きな瘤が出来ていた。
ぬらりとした生暖かい感触がそこにある。
少なからぬ血が流れているのがわかった。
肌寒さと鈍い痛みを感じはじめた。
冷たく淀んで湿った、空気の匂い。
体をゆっくり動かしてみて、他には大した傷などないことを確認する。
半身を少し起こし、両目に入った塵を拭いながら、周囲を見回した。
崩れ落ちた数本の梁同士が頬杖になって、偶然できた、土砂と岩の狭い空間。
運よく助かった。
が、前後左右の空間は、三田村が手足を伸ばすことさえできない。
かろうじて寝返りがうてる程度の、棺桶のような空間。
音は何も聞こえてこない。
あるいは自分の耳がおかしくなったのかもしれないと思ってささやき声を出してみると、しっかり聞き取ることができた。
落盤事故が起きたことはすぐに思い出すことができた。
蝋燭の減り具合から、事故からそれほど時が過ぎていないこともわかった。
上下、四方も隙間なく閉ざされている様子だった。
三田村は教えられていたとおり、蝋燭を吹き消そうとした。
救出を待つ間、狭い空間の残りの酸素を少しでも節約するためだという。
だが、完全な闇になるのを嫌って、躊躇った。
看守たちが三田村をすぐに助けに来ようとしているとは限らない。
今までの事故のケースからすれば、落盤が書きたら速やかに全員が坑道から脱出する。
直後に状況確認を行い、二次災害の恐れがないと判断がおりて救出活動に着手する。
これまでの事故でも、救出作業にかかるまで半日以上かかることなどざらにあった。
ある特別試掘坑など、脆弱な地盤地質のために事故の後にそのまま閉鎖されてしまったものもあった。
そこにいた囚人にとっては、その穴が文字通り墓穴になってしまった。
助けられるものなら、助けようとする。
看守であろうと、囚人であろうと区別はない。
だが、危険を犯すような無理は絶対にしない。
リスクは、常に作業員とともにある。
危険思想を持つ政治犯を使って試掘を行っていること自体、地質的に危険な区域であることの証だ、と囚人仲間の一人が言っていた。
俺たちは消耗品だ、だからこれほど死亡事故が多いのだ、とも。
恐らく、死亡記録さえ残らないのだろう。
助けを呼ぶための声を張り上げることを、三田村は躊躇った。
あんな奴らに助けを請うことが嫌だったのだ。
嫌いな奴らに助けてほしくなどなかった。
三田村は、蝋燭も消さずに、目の前の岩を腹ばいの窮屈な姿勢で取り除き始めた。
乏しい明かりで手がかりを探り、頭上の安全を確かめながら、少しずつ。
自力での脱出などできないだろうが、助けが来るのをおとなしく待つほど素直ではない。
大きな岩を掘り出して後ろに送り、土砂を両手ですくっては後ろに送る。
三田村は人間モグラのように、少しずつ掘っては前方へ這い進んでいった。
少しずつ、少しずつ…
何の道具もないので、素手で掘り続けた。
軍手の先が破れてむき出しの指が冷たく湿った土くれを抉っていく。
感覚が麻痺して、すぐに痛みは感じなくなった。
やがて、カンテラの蝋燭が消えた。蝋が尽きたのだ。
目をつぶっても開いても、同じ暗黒だけがそこにある。
何も感じず、何も考えず、三田村は手探りで土を掘り、岩をどけて先に進んでいく。