ソフト考現学

著 : 中村 一朗

Ⅰ : 「七人の侍」


○「生」と「死」の物語

 モノクロ映画の迫力って、これほどまで凄まじいものなのか。

 最後のハイライトシーンは、降りすさぶ豪雨の中。

 疾駆する人馬が泥流を蹴散らし、男も女も老人さえも手にした武器で殺し合う。

 倒れた野武士は農民たちに八つ裂きにされ、逆に走れなくなった農民たちは容赦なくの武士たちの槍や弓矢に貫かれる。斬り殺され、射貫かれて死んでいく、人!人!人!

 派手やかな流血や苦悶の表情など描かれない。

 むしろ人々は、あっけないほど簡単に死んでいく。

 白黒の凄惨なドキュメントのような映像が訴える迫力の正体は、必死の執念。

 そこには正義も悪もなく、いや、自然界原則のはずの弱肉強食さえ通用しない。

 殺人の技に勝れた者よりも、強運の者が生き残る。

 これが、時代劇に革命をもたらした『七人の侍』が描き出した戦場の姿だった。


 時は恐らく、足利幕府末期の戦国時代。

 物語は、野武士たちの襲撃に怯える貧しい山村から始まる。

 毎年続く野武士たちの非道に耐え切れなくなった農民たちは、村を守ってくれる侍を探して都に出た。貧しい彼らの提示する雇用報酬は、腹いっぱい飯を食わせること。

 しかし農民たちの必死の嘆願も、戦乱の世の侍たちには通用しなかった。

 蹴り倒され、這いつくばって涙する惨めな農民たち。

 そんな彼らに同情したのは、初老の剣豪・島田勘兵衛だった。

 やがて島田の元に、ひと癖もふた癖もある侍たちが集ってくる。

 島田を含めて七人になった侍たちは、山奥の村へと向かった。

 が、村で彼らを待っていたのは、歓迎の声よりも農民たちの怯えた視線だった。

 島田たちは短期間で村を要塞化し、農民たちが武器を手にして戦えるように鍛え上げようとしていく。侍たちの厳しい言葉に、村の不協和音も徐々に融解していった。

 徐々に心を開きだした農民たち。

 その一方で侍たちは、戦乱の世で生きる農民たちのしたたかな正体を目の当たりにすることになる。農民たちが隠し持っていた武器や防具から、島田たちは、彼らがかつて落ち武者狩りをしていたことを知って愕然とした。出世運のない侍は、以前の負け戦で落ち武者になり、賞金目当ての村人たちから竹槍で追われた経験を持っていたのだ。

 憤慨する島田たちを、仲間の一人・菊千代が嘲笑った。そして、「土を耕したいだけの百姓を、生きるためになんでもする化け物に変えたのはお前たち侍だ!」と、涙ながらに糾弾した。

 不器用な、それでいて血を吐くような叫びに島田たちは心を動かされる。同時に島田は、菊千代が農民であったことを看破した。被害者だと思っていた農民は加害者でもあり、そしてまた彼らを加害者にしたのも、野武士や侍たちの振る舞いだった。

 互いの立場を理解するというより、相手の姿を鏡にして己の中の闇を認めるシーンである。


○“野ぶせり”の正体と「負け戦(いくさ)」の意味

 “野武士”は“野伏”とも書く。また“野ぶせり”とも言う。島田たちは彼らを野武士というが、農民たちは“野ぶせり”と呼んでいた。

 一般に野武士は野に下った武士のように思われがちだが、厳密には違う。落ち武者狩りで手に入れた刀や槍で武装した農民集団のことだ。彼らは、戦で荒れた田畑を放棄し、武装してさすらう強盗団になっていくのだ。

 映画の冒頭で、野武士の首領が「米が実ったら、またくるべえ!」と叫ぶシーンがある。彼らが武士ではなく、農民であることを示す台詞。

 だから正当な武門の血筋を引く島田たちとは異なり、野武士は同類の武士ではない。

 侍たちの目から見れば、いわば外道の盗賊だ。

 島田たちは野武士を野犬のように扱い、戦(いくさ)名乗りも上げずに平然と殺す。

 一方、農民たちにとっても野武士は武士ですらない。

 元農民なのだから、自分たちに近い、外道の元農民だ。

 農民が農民であるための条件は、大地への執着にある。

 その執着を捨てて外道に成り下がった“野伏”たち。しかし彼らも、農民だった過去を完全に消すことはできない。彼らの目に映る農民の姿は、惨めだったころの自分たちの残像であり、まだ土に執着する者への歪んだ嫉妬でもあったりする。

 だからこそ憎悪の対象。骨肉の争いにも似た、近親憎悪だ。

 “野伏”たちが単に収奪を求めるなら、もっと楽に強奪できる村を襲えばいい。40人いた野武士たちが13人に減っても村への襲撃を続けた理由は、腹の飢えを満たすためだけではない。精神の飢え。農民への憎悪が、この殺戮と強奪の根源にある。

 この憎悪の執着のために、“野伏”は武士になれないのだ。

 大地を要にして構築された、農民と野伏たちを結ぶ憎悪のループ。

 この哀れで惨めで残虐な野伏を駆除するために用いられた道具が、七人の侍たちだった。

 農民たちの武器に過ぎない侍たちだから、戦いに勝利など感じない。

 農民に勝利をもたらしたのは侍たちの活躍だったが、侍として自身のために戦ったわけではない。農民たちへの同情から自らの戦いと信じていた島田も、死んでいった仲間たちの墓前でこれを自覚する。「また負け戦(いくさ)だった。勝ったのは百姓たちだ」とつぶやく。この言葉のむなしさは、ここに由来する。


○戦国の侍の姿

 「七人の侍」は昭和29年に公開された。

 監督は、黒澤明。昭和25年に公開された「羅生門」で国際ベネチア映画祭のグランプリ(翌・昭和26年)を獲得して世界的名声を獲得していた。

 シナリオ作成に半年以上、撮影期間は11ヶ月にも及んだという。

 結果、完成した作品はそれまで外国人がイメージしていた「ハラキリの侍」や「自己犠牲の武士道」の侍像を覆した。つまり、本当に近い戦国末期の武士たちの姿を描いたのだ。

 よくある戦国時代の物語は、武将たちの生き様が中心。日の当たる歴史の王道を駆け抜けるのは領主たちばかりだ。でもその影では、闊達にその時代を生き抜いた浪人たちの記録も数多く認められている。彼らは、堅苦しい武家社会に組み込まれることを嫌い、自由な生涯を選択した。「七人の侍」たちも、そんなキャラクターだ。明るく笑い、怒り、義理人情にほだされ悩み、ときには戦いで倒れた仲間たちの亡骸にすがりついて涙する。

 そんな人間らしさこそ、世界のクロサワが描き出した本当の侍の姿だった。

 基本的に戦国時代の雇われ侍たちは、浪人、すなわち自由人である。斬人を生業にするフリーターだ。戦場で知行や恩賞を求めながらも、奉公までは望まない。下克上という言葉さえむなしく響くほど、領主とやとわれ侍との絆は希薄なものだった。報酬のために命はかけても、死は望まない。命を捨てる忠義忠誠心などは権力者に都合のいい美談で、その源になった武士道という言葉さえ、江戸時代以降に登場した言葉に過ぎない。

 しかし、この美化された武士道精神という言葉は、江戸時代を貫いてやがて幕末期に、毒々しい花弁を纏って艶やかに開花していくことになる。

 腰砕けの幕府への反発から起きる攘夷運動では、武士道精神という虚飾は武士のあるべき姿として人々の口先に登場してくる。特に、武家社会でも比較的下層階級に位置する武士たちには、国士の志す理想像として磨き上げられていった。そして維新革命後もその精神は姿を変えて明治政府の軍国思想の中核に受け継がれ、様々に変貌を遂げながら進化と退化を繰り返した。やがて太平洋戦争の終結と共に、ようやく美しくも歪んだ武士道精神という宗教的思想はひとつの終焉を迎えた。

 個人的史論では第二次世界大戦の終了によって、幕末維新革命の武士道幻想はようやく終わったのだと思うのだが、この話はまた、別の機会に…


○剣聖と剣豪

 ところで、この物語の主人公・島田勘兵衛のキャラクターには実在のモデルがいる。

 剣聖として知られる新陰流開祖・上泉信綱。

 島田の登場シーンで、彼は人質の子どもを助けるために髷(まげ)をおろして雲水(旅の僧侶)に姿を変える。両手に握り飯を持って狂賊の隙をうかがい、これを斃して子どもを助ける。

 「武芸小伝」に語られている、上泉信綱のエピソードだ。

 ただし信綱の場合、狂賊は殺されてはいない。

 素手で制圧されただけだ。

 見知らぬ子どもを助けるために髷を落した姿に感動した雲水は、せめてもの気持ちとして自らの袈裟を信綱に差し出した。

 恐らく、貧しい雲水には精一杯のものだったはず。その袈裟は後に、直弟子の一人・神後伊豆(心影流・開祖)に受け継がれたという。

 上泉信綱は、竹刀の発明者としても知られる室町時代末期の人物。

 同時代において地上最強の剣豪・塚原卜伝と双璧をなす。一説には、この二人には深い交流があったとされる。

 信綱は同盟関係にあった箕輪の城主・長野業政(なりまさ)の死後、その敵対者の武田信玄からの強い誘いを辞して自らの城から旅立った。

 このとき、上泉信綱は五十台半ば。以後、浪人として生涯を貫いた。

 旅の中で多くの剣客と出会い、柳生新陰流開祖・柳生宗厳(後の石舟斎)や体捨流開祖・丸目蔵人などの数多くの弟子たちを育て上げた。晩年には正親町(おおぎまち)天皇の呼びかけで剣法史上初の天覧演舞を披露した。

 しかしそれだけ高く評価され、多くの弟子を持ちながら、上泉信綱は旅の空に散ったという。訃報に多くの弟子たちが嘆いた記録は残っているが、その墓は今なお不明のままだ。


 そして映画のラストシーン。

 小高い丘にたたずむ名もない粗末な墓の群れ。

 そのひとつは、自由な道を歩み続けた剣聖・上泉信綱の幻の墓にふさわしく思える。

 死後も名を残そうと執着する俗物根性の大名や武将たちの派手やかな墓石の群れとは一線を画す静謐がそこに流れているような…

 ところで、最強の剣豪・塚原卜伝もまた、終生武者修業の旅を繰り返していた。やがて故郷の鹿島で多くの弟子たちに看取られて、83年の波乱に満ちた生涯を閉じた。

 その墓は、ただ小さな石を置いただけの質素を極めたものである。地元住民たちの立派な墓の中を抜けた小高い丘の中腹に、ひっそりとたたずんでいる。

 恐らく、これは塚原卜伝の遺志によるものだったのたろう。



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