ラリー、やろうぜ! 第一章

著 : 中村 一朗

A.“ラリー、やらねえか?”


「アキラ。ラリー、やらねえか?」
 蒸し暑くなり始めた、夏の夜。
 三年前まで僕と同じゼミで卒業論文を書いていた服部清から、唐突な電話がきた。
 去年の同期会以来、一年以上もご無沙汰していながら、何の前置きもなく用件を突きつけてくる横柄さは、相変わらずだ。
「何だよ、急に。…ラリーって、砂漠でも走りたいのか?」
「バーカ!そりゃあ、ラリー・レイドだ。オレが言ってるのは、林道の方だよ」
 電話の向こうでは、WRCみたいなラリーのことだ、っていう説教臭い話に熱弁をふるっていたが、ビッツとフィットの区別もつかない僕のようなシロウトにはよくわからない。
 ちなみに、学生時代の服部は自動車部に籍を置いていて、車大好き人間だった。
 一方の僕は、体育会系の空手部。
 もっとも、理系大学の空手部だから、部活の練習や縦型の規律はそれほど厳しくはなかったけど…。
「ところで、何で僕な訳?」
「おまえ、“鉄の胃”だから」
 “水谷晶は、絶対にゲロを吐かない。”
 ぼくがそんな風評を立てられたのは、大学に入学した直後からだった。
 あらゆる飲み会の席で最後まで居座り、シャキッとしていられた。
 悪名高い空手部の新歓コンパの時でも、潰しにかかった先輩たちをことごとく撃破した。
 もちろん、車に酔ったこともない。
 生まれつき、胃腸が丈夫なようなのだ。
 そんな噂に拍車がかかったのは、大学四年になってから。
 四年の春。僕は、内田研究室の新歓コンパで存分に飲んだ後に服部の車(確か、日産のシルビアだった)に乗って、峠に連れて行かれた。
 僕にゲロをはかせることが目的だったらしい。
 後で聞いたらゼミ仲間で賭けをしており、ほぼ全員が僕のゲロに賭けていた。
 吐かない方に賭けていたのは、老獪な内田教授だけだったそうだ。
 狭い道をジェットコースターのように走り回り、時折景色が横に流れるシーンには少しだけ感動した。
 酒が全くダメな自動車部部員・服部を、少しだけ凄いと思った。
 とにかくそれでも、僕は酔わなかった。
 結果、僕は“鉄の胃”の称号を貰い、内田教授は金のない学生たちから、賭けられていた17枚の学食Aランチチケットを容赦なく取り上げた。
 服部も、取られた奴らの中のひとり。
 そしてその内の一枚たりとも、僕に“おっそ分け”が来る事はなかった。
 やがて知る事になる教授の性格からすれば、当然だったけど。
 人格者とは程遠い根性曲がりの教授なのだが、非常に優秀。で、どういう訳か妙な腐れ縁で、僕はそのまま大学に残り、今では、その内田研究室の助手をしている。
「ぼくの胃袋が、何でラリーに関係するのさ?」
「四谷先輩に聞いたんだ。ナビゲーター探すなら、絶対に胃が丈夫なヤツにしろ、って。実は四谷先輩から、車買っちゃった。本物のラリー車。ランサーのエボ6でさ…」
 それからしばらく、服部は謎の言葉を話し続けた。
 どうやら車とラリーの説明らしいのだが、舞い上がって一人で盛り上がっている服部の話はどうも要領を得ず、加えて膨大に羅列する専門用語も理解の障害になっていた。
 服部の話では、十年くらい前まで、うちの大学の自動車部は盛んに自動車のラリー競技に参加していたという。それが、どういうわけか今ではその分野は廃れてしまい、服部が入部したころには自動車部の活動はツーリングが主体となっていたのだそうだ。
 話の腰を折るのも悪いと思ったので、適当な相槌を打って勝手にしゃべらせておいた。
 その一方で、僕は頭に引っかかる別の記憶を探っていた。
 キーワードは、“四谷先輩”…
 そして、間もなく思い当たった。
「ちょっと待て、服部。四谷先輩って、うちのゼミのOBのことか?」
「そう。俺たちより、ひと回りぐらい年上の。あの先輩、自動車部のOBでもあるんだ」
 僕には、面識はない。でも、噂ではさんざん聞かされてきた。今では優秀なエンジニアとして中堅メーカーの開発スタッフを仕切っているという、伝説の野蛮人。
「…あの、“歩きウンコ”事件…」
 そう呟いた僕の声に、服部の爆笑が電話のスピーカから返ってきた。
 本当か嘘か、伝説の語り部は内田教授である。(表現は、内田教授の解説から抜粋)
 十数年前のゼミの打ち上げ旅行の夜。
 野外バーベキューで盛り上がった宴会の席で、四年だった四谷先輩は突然おなかが痛くなったという。急な差込でホテルのトイレまで駆けていくのを面倒に感じた四谷先輩は、少し離れたところにあった太い倒木の影にしゃがむことに決めた。
 常に胸ポケットにティッシュを持っていた習慣が幸い(?)した。
 直ぐにパンツを下ろして、四谷先輩は用を足した。
 すると、あふれ出た“ところてん”が盛り上がって、四谷先輩のおしりに急接近した。危険を感じた四谷先輩は中腰になり、その姿勢で前方に向かって歩き出したという。
 その間も、“ところてん”は出続けた。(長い尻尾を引きずりながら“あひる歩き”をしているサルの姿を連想してみなさい、と教授は言った。)
 姿が見えなくなった四谷先輩を探しに来た後輩の女子学生が、闇の中で倒木の反対側を移動する生首の横顔を懐中電灯で照らし出したのはその直後のこと。
 実はこの時まで、その女子学生は四谷先輩にささやかな憧れを抱いていたという。
 生首がライトに振り向き、ニタリと笑った。
 彼女が悲鳴を上げたのも無理はない。
 その叫び声に、仲間たちが慌てて駆けつけてきた。
 後に四谷先輩は、笑ったのではなくライトが眩しくて顔をしかめたと証言したらしい。
 その後。慌てた四谷先輩はおしりも拭かずに立ち上がり、すべてをさらけ出して人の尊厳を失ったとか、そのまま手を洗わずにバーベキューの席に戻って食いまくったとか、いろいろな伝説が内田教授によって吹聴された。
 そしてこの事件で、四谷先輩に憧れていた女子大生はショックを受け、先輩自身は全く気にせずにゼミでの平穏な日々を過ごして無事に卒業したという。
 その鋼のような精神には、毛筋ほどの傷もつかなかったらしい。
 メダカをサンマに摩り替えて語るような悪魔の話術。
 内田教授はそういう人なのだ。
「とにかく、四谷先輩は現役のラリードライバーでさ。シリーズチャンピオンにもなったこともあるんだぜ。お前もラリーに出てもみろ、ってオレに勧めてくれたんだ」
 服部が大学を卒業してから3年半。
 中堅電気メーカーに就職したから、少しは時間と気持ちとお金の余裕も出来たのだろう。
 そういえば卒業間際に、いつかは本格的にモータースポーツをやりたい、なんていう夢物語を口にしていた。自動車部に入部した動機も、本当はそれだったのだ、と。
 あの時は、峠の腕自慢野郎のたわごとと思っていたが、どうやら本気だったらしい。
 正直、僕も少しだけ興味を覚えた。
 もちろん、ラリーだがレイドなんかにじゃない。
 伝説の四谷先輩について。
 正確には、尾ひれ背びれのついた伝説の実像について。
 更に言えば、そんな尾ひれと背びれをつける内田教授の性根についても。
 だが、心配なのは経済的問題。
 モータースポーツは金食い虫だという。
「僕は、金なんかないよ」
「中型免許、持ってたろ。なら、大丈夫だ。ナビなら、大してかからねえ。それにおまえ、自宅から通ってんだろ」
「だけど、やっぱ…高いんじゃない?」
「初期投資は2万ぐらい。JAFの登録料と講習料。国内B級ライセンスの取得に必要なんだ。ラリーのエントリー費は心配するな。今年の分は、俺が出すよ」
 それから約10分間。
 服部は一人ではしゃぎ続け、こちらの無関心にも気づかずに車の話を延々と続けた。
 やがて僕と服部は、今週末の土曜日に一緒にライセンス取得のための講習会に行くことになり、ようやく電話を切ることができた。
 大きくため息をついてみると、少しだけ気が重くなった。
 なんだか、たちの悪いキャッチセールスの呼び出しに応じてしまったような気がした。


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