サブカルチャー考原セミナー

『どろろ』と“妖怪”

著 : 五十嵐 アキヒコ

d,古神道と陰陽五行


 古神道の考え方も、歴史の流れと共に海外から入ってきた思想が加わり、移り変わっていく。特に妖怪の存在に対して強い影響を出したのが陰陽五行思想だろう。

 この思想は中国の春秋戦国時代にほぼ完成し、百済から日本に伝わった。

 当初こそ影響はほとんど無かったが、聖徳太子を始めとする国の中核を成す主要な官僚に伝わると、国政に強い影響力を持つようになった。

 そうして生まれた官職が陰陽師である。

 その職務は占術、呪術、祭祀を行っていた。

 この官職が生まれてから、記録に妖怪の存在が如実に表れてくる。

 陰陽五行思想の詳細は専門書に譲るが、簡単に説明すると、陰陽思想は全ての事象は陰と陽の相反する形で存在するという思想のこと。

 五行思想は、木火土金水という五つの要素により全ての物が成り立つという思想である。

 この二つを合わせて、さらに道教の道術が組み合わさり日本独自の進化をし、発展していった。

 陰陽師は陰陽寮という部署に所属する官僚の名称である。

 陰陽師が全盛を極めるのが平安時代で、現在でもその名が知られる陰陽師を数多く排出してゆく。

 そのきっかけは、桓武天皇が悪霊におびえ長岡京から平安京へ遷都したことに端を発し、朝廷を中心に悪霊退散のために呪術を用い恩恵を得ようとする風潮が強くなった。

 この風潮を背景に、古神道に加え、霊符呪術に代表される道教色の強い呪術が注目されていった。

 さらに、呪禁道を掌握していた典薬寮が中臣鎌足によって陰陽寮に統合されると、古神道、仏教、道教が混ざり合う独特の思想を作り出すようになり、八世紀末に密教が伝わるとこれらも合わさり、日本独自の陰陽道が形成されていく。

 この陰陽道は、陰陽寮の部署に所属する官僚しか知り得ない門外不出のものであったが、易学に精通していた宇多天皇をはじめ、陰陽寮の外にある人間が陰陽道の知識を取得していた事実が、門外不出という律令に定められた決まりの破綻と、宮廷内で陰陽道がいかに重要視されていたかがよくわかる。

 平安時代中期になると、この傾向はさらに顕著になり、陰陽寮に所属しないヤミ陰陽師が跋扈してくる。

 彼らは私的に貴族と結びつき、占いやお祓いだけでなく、敵対者の呪殺まで請け負うことがあり、権力を持つ人の精神的な支配力を持つようになっていく。

 本来、律令が定めた職務を逸脱した陰陽師が世に出ることで、混沌とした様相を呈してくる。

 10世紀に入ると、天文、陰陽、暦の全てに精通した陰陽師である賀茂忠行(かもただゆき)、賀茂保憲(かもやすのり)親子と、その弟子であった安倍晴明が、朝廷中枢から多大な信頼を得る。賀茂保憲は嫡子の賀茂光栄(かもみつよし)に暦道を、安倍晴明に天文道の全てを伝え、以後は賀茂氏と阿部氏が世襲によって陰陽寮の独占を行っていく。

 こうした動きは鎌倉幕府が開かれ、政権移行が行われるまで続くことになる。

 陰陽師は式神と呼ばれる鬼神を呼び出し使役したと言われる。

 この鬼神も妖怪である点に注目したい。

 式神の式は用いるを意味する言葉で、神を人間が使役するという発想に面白さを感じて貰えるだろう。先にも書いたが、古神道の考え方では、神と人間は一方通行の関係では無く相互に干渉ができる。こうした発想があればこそ、人間が神を使役するという考え方が生まれてくるのではないだろうか。

 特に、安倍晴明は十二天将と呼ばれる式神を呼び出し、人々の悪行や善行を見定めていたと言われる。

 さらに、丑の刻参りという言葉を聞いたことがある人は多いと思う。

 これは平安時代から始まった呪術の一つで、神木や神体に釘を打ち付け結界を破り、常世から荒ぶる神を呼び出して自分に乗り移らせ、恨む相手を祟るという荒技だ。

 丑の刻参りは、陰陽師でなくとも行える点にも注目したい。この丑の刻参りでも、復讐のために人間に使役される神ということで式神が呼び出されている。

 式神の考え方自体は道教や密教のものだが、日本ではやはり古神道がベースになっている。

 巫女や神主は、神降ろしの儀式で神を呼び出し、自分に憑依させる。これを神楽や祈祷といい、ここで呼び出される神は和御魂の神である。

 式神で呼び出されるのは荒御魂の神で、呼び出した陰陽師自身に憑依させる訳ではない。



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